by writer » 2024年7月12日(金) 11:07
折れ・曲がり・横・縦について一つ一つを気ままにせず、先人の残した学習方法に従って筆を下ろしますと、自然に熟達してまいります。
お稽古の初めは、居ずまいを正し、筆を静かに運び、よくよく心をこめて練習をなさいませ。ご熟達になった後は、筆に任せてお書きになっても、筆法から外れることはありません。
それであるからこそまた、この一か条「古賢の筆遣いを会得すること」は重要でございます。
結局、一つの点画を書くごとに、その点画に寄せる優れた書家たちの心づかいを考えると、いいかげんな点などがあってはなりません。一つの所でもいいかげんな所があると、一字全体が悪く見えます。一字全体を不注意に書いてしまうと、全体がいい加減なものになってしまいます。
古の能書たちの筆遣いは、ただ自然を手本としたのです。王羲之の用筆の図に、今述べてきたような筆遣いで書いて老木を思わせる線を、万歳の枯藤と申しております。:雰囲気や自然をそのままに
つまり能書の筆跡は生き生きとして生物のようです。心や魂の入っているもののように見えます。
目先がちょっと変わっただけの趣を基本としますと、本当に正しく美しい趣としての変化も、美しく書き写すことができません。
本当に正しくて美しいプレーを目指す
見て分からない人すなわち鑑識眼のない人は、その見えた姿だけを単純に似ていると見ますけれども、書の道の本質をわかっている人の鑑識眼から見れば、似ても似つかないものです。
美しく書こうとして、筆を整えてふるえるほど懸命に書いても、か弱く、見るに堪えないもので、まったく美しくは見えません。また、強く見せようとして筆を紙に強く当てるのですが、筆を下手に使うので、ただ乱暴で乱れたものになります。さっぱり強いところがありません。
このようなことを、「外道の邪見」すなわち「正しい道以外のことに従うよこしまな考え」などと申します。これは正しい書の道のためには障害です。
書道に限らず、芸道は、実は仏法の悟りから起こったものです。仏法の悟りから起こって、世間の技芸などのようなものに出現しては、管絃、音曲、詩歌などとなり、どれもこれも、諸芸術での邪僻じゃへきと正路が現れるのはこのことです。
何を本質とするのか、よろしく取捨選択ください。全ての事に、二つの道理はありません。その悟さとりは一つです。だかた、あらゆるものは外にあらわれてはいろいろな形をとるけれども、その真実のすがたは宇宙の本体という一つのものに帰するという仏法の思想と通じます。
したがって、そのような字を書く才能があれば、世間の人もこれをもてはやし、自分自身も興趣にのってしまって、まるでそれが本筋のようになり、本来の稽古は二の次になってしまうので、よくよくそのようなことは差し控えてください。
このようなことを好む人の筆跡は、ちょっとしたものを書いたときは、一応立派そうに見えるが、厳格なものを書いた清書などはどうしても自分の力の劣ったのが現れます。
けれども、ただひたすら何度も美しく正しく書くことが大事なことです。
これらの異様なことを好んで用いるのは容易なことです。
入木の正しい道は遠く、また追い求め難く、よこしまな道は近く歩みやすく感じ、そういう意味で才能のある人のあってはならないことです。ようよく慎まねばなりません。
その上、下手な所もよくよく見極めて、ご自分で直されますと、次第に意図にそった文字が書けるようになるでしょう。
間違い直しノートを作る
また、そのようにして置かれたのを、一つ一つ私の方におよこし下されば、それについてのご批評を申し上げます。
稽古をしている間に、常に善悪が起こってくること
初歩のうちは、手習いを致しますと、急に筆が渋滞し、字形も手本に似なくなります。必ず思ったように書けなくなるものです。
その時に、なんとなくいやになり、怠おこたりの心が起こります。そのようなことに目もくれずに、ただ、同じように稽古を続けますと、四、五日から十日ぐらいたつとよくなります。そうなると、今度は以前によく書けたように思ったものよりも、さらに優れた文字が書けます。
このような状態を何回か繰り返して上手になるものです。
初心のうちは、それに加えて休まないことです。「繰り返す」「休まない」という事を心掛けていると、そのうちに一段一段と腕前が上がっていくものです。
三賢さんけん(三跡さんせきのこと)すなわち小野道風・藤原佐理・藤原行成の筆跡だからといって、手本とするについて注意しなければならないことがあります。初歩の人が、先生に相談せずに三賢のこの手本はおもしろい、この字は興味があるとかいって習っても、上達するとは限りません。三賢の立派なしょでも、時によって筆遣いは同じではありません。
何はともあれ、達人の書として書かれているものであるので、すばらしいのですが、お手本として習わねばならない書風もあります。
初歩の人では習ってはならない筆体もあります
多くの手本をご覧になるのは大切なことです。
お稽古には、多くの手本のなかからどれか一つの手本をお決めになって、それを基本として習い、その他に数種類のお手本をご覧になって参考にいたしますと勉強になるでしょう。
まず、この入木道をどのように心得、自分の才能はどの程度であるかを理解して稽古をするべきで、勝手気ままに習い方を決めて、それに自分を合わせるべきではないのです。
仏法を学ぶ者も、仏や有徳の先人の悟りの跡を探り、仏の奥深い知恵、通達した見識を悟り極めようと学びますので、更にその行きつく果ては無いのです。
太宗の言葉に、「目標を上に置けば中ほどにとどまり、中に置けばせいぜい下程度にしか達しない。」とあるのもこの意味です。
いくら良い唐墨でも、取り扱いが悪ければすぐにでも痛みます。包まずに塗り物に入れておき、使い終わったら常によく拭くようにします。
これは最上の秘事です。
日本では、常に過去の事跡を受け継いで、国風を失いません。
前代の旧風を改めて、新しい時代の風俗を広めさせます。もちろん書風もみな改めます。硯の作り方でも、昔と今とでは違います。
国風という書の本質は変わっていません。ただ、時代にしたがって次第に変化したように外見は見えますけれども、その実質はまったく同じものであります。
文字は、みずみずしくつやをもって書くべきである。きっぱりとしてつやに欠けるものは、見ためがよくないものである。
折れ・曲がり・横・縦について一つ一つを気ままにせず、先人の残した学習方法に従って筆を下ろしますと、自然に熟達してまいります。
お稽古の初めは、居ずまいを正し、筆を静かに運び、よくよく心をこめて練習をなさいませ。ご熟達になった後は、筆に任せてお書きになっても、筆法から外れることはありません。
それであるからこそまた、この一か条「古賢の筆遣いを会得すること」は重要でございます。
結局、一つの点画を書くごとに、その点画に寄せる優れた書家たちの心づかいを考えると、いいかげんな点などがあってはなりません。一つの所でもいいかげんな所があると、一字全体が悪く見えます。一字全体を不注意に書いてしまうと、全体がいい加減なものになってしまいます。
古の能書たちの筆遣いは、ただ自然を手本としたのです。王羲之の用筆の図に、今述べてきたような筆遣いで書いて老木を思わせる線を、万歳の枯藤と申しております。:雰囲気や自然をそのままに
つまり能書の筆跡は生き生きとして生物のようです。心や魂の入っているもののように見えます。
目先がちょっと変わっただけの趣を基本としますと、本当に正しく美しい趣としての変化も、美しく書き写すことができません。
本当に正しくて美しいプレーを目指す
見て分からない人すなわち鑑識眼のない人は、その見えた姿だけを単純に似ていると見ますけれども、書の道の本質をわかっている人の鑑識眼から見れば、似ても似つかないものです。
美しく書こうとして、筆を整えてふるえるほど懸命に書いても、か弱く、見るに堪えないもので、まったく美しくは見えません。また、強く見せようとして筆を紙に強く当てるのですが、筆を下手に使うので、ただ乱暴で乱れたものになります。さっぱり強いところがありません。
このようなことを、「外道の邪見」すなわち「正しい道以外のことに従うよこしまな考え」などと申します。これは正しい書の道のためには障害です。
書道に限らず、芸道は、実は仏法の悟りから起こったものです。仏法の悟りから起こって、世間の技芸などのようなものに出現しては、管絃、音曲、詩歌などとなり、どれもこれも、諸芸術での邪僻じゃへきと正路が現れるのはこのことです。
何を本質とするのか、よろしく取捨選択ください。全ての事に、二つの道理はありません。その悟さとりは一つです。だかた、あらゆるものは外にあらわれてはいろいろな形をとるけれども、その真実のすがたは宇宙の本体という一つのものに帰するという仏法の思想と通じます。
したがって、そのような字を書く才能があれば、世間の人もこれをもてはやし、自分自身も興趣にのってしまって、まるでそれが本筋のようになり、本来の稽古は二の次になってしまうので、よくよくそのようなことは差し控えてください。
このようなことを好む人の筆跡は、ちょっとしたものを書いたときは、一応立派そうに見えるが、厳格なものを書いた清書などはどうしても自分の力の劣ったのが現れます。
けれども、ただひたすら何度も美しく正しく書くことが大事なことです。
これらの異様なことを好んで用いるのは容易なことです。
入木の正しい道は遠く、また追い求め難く、よこしまな道は近く歩みやすく感じ、そういう意味で才能のある人のあってはならないことです。ようよく慎まねばなりません。
その上、下手な所もよくよく見極めて、ご自分で直されますと、次第に意図にそった文字が書けるようになるでしょう。
間違い直しノートを作る
また、そのようにして置かれたのを、一つ一つ私の方におよこし下されば、それについてのご批評を申し上げます。
稽古をしている間に、常に善悪が起こってくること
初歩のうちは、手習いを致しますと、急に筆が渋滞し、字形も手本に似なくなります。必ず思ったように書けなくなるものです。
その時に、なんとなくいやになり、怠おこたりの心が起こります。そのようなことに目もくれずに、ただ、同じように稽古を続けますと、四、五日から十日ぐらいたつとよくなります。そうなると、今度は以前によく書けたように思ったものよりも、さらに優れた文字が書けます。
このような状態を何回か繰り返して上手になるものです。
初心のうちは、それに加えて休まないことです。「繰り返す」「休まない」という事を心掛けていると、そのうちに一段一段と腕前が上がっていくものです。
三賢さんけん(三跡さんせきのこと)すなわち小野道風・藤原佐理・藤原行成の筆跡だからといって、手本とするについて注意しなければならないことがあります。初歩の人が、先生に相談せずに三賢のこの手本はおもしろい、この字は興味があるとかいって習っても、上達するとは限りません。三賢の立派なしょでも、時によって筆遣いは同じではありません。
何はともあれ、達人の書として書かれているものであるので、すばらしいのですが、お手本として習わねばならない書風もあります。
初歩の人では習ってはならない筆体もあります
多くの手本をご覧になるのは大切なことです。
お稽古には、多くの手本のなかからどれか一つの手本をお決めになって、それを基本として習い、その他に数種類のお手本をご覧になって参考にいたしますと勉強になるでしょう。
まず、この入木道をどのように心得、自分の才能はどの程度であるかを理解して稽古をするべきで、勝手気ままに習い方を決めて、それに自分を合わせるべきではないのです。
仏法を学ぶ者も、仏や有徳の先人の悟りの跡を探り、仏の奥深い知恵、通達した見識を悟り極めようと学びますので、更にその行きつく果ては無いのです。
太宗の言葉に、「目標を上に置けば中ほどにとどまり、中に置けばせいぜい下程度にしか達しない。」とあるのもこの意味です。
いくら良い唐墨でも、取り扱いが悪ければすぐにでも痛みます。包まずに塗り物に入れておき、使い終わったら常によく拭くようにします。
これは最上の秘事です。
日本では、常に過去の事跡を受け継いで、国風を失いません。
前代の旧風を改めて、新しい時代の風俗を広めさせます。もちろん書風もみな改めます。硯の作り方でも、昔と今とでは違います。
国風という書の本質は変わっていません。ただ、時代にしたがって次第に変化したように外見は見えますけれども、その実質はまったく同じものであります。
文字は、みずみずしくつやをもって書くべきである。きっぱりとしてつやに欠けるものは、見ためがよくないものである。