by writer » 2025年5月15日(木) 22:37
『普勧坐禅儀』現代語訳(全文)
もともと、道というものはすでに円満に通じていて、何か修行や悟りを仮りに必要とするものではありません。仏の教えは本来自由自在であり、どうして苦労して努力する必要があるでしょうか。ましてや、はるかに迷いの世界を離れているというのに、どうして煩悩を払う方法など信じるでしょうか。
つまり、今いるこの場所から離れることなく、本来、修行に足を運ぶ必要などないのです。
しかしながら、ほんのわずかな違いでも、天と地ほどの隔たりが生まれます。少しでも迷いや逆らいの心が起これば、たちまち心が混乱して迷ってしまいます。たとえ仏法を理解して悟りが豊かになり、一瞬にして智慧を得、真理の道をつかんで、心を明らかにし、天をつくような志を立て、仏道の入り口を自由に行き来できるようになったとしても、本当に生きた仏の命(本質)に触れる道を失ってしまうかもしれません。
ましてや、釈迦が悟りを得たときの六年間の端坐の跡を見れば明らかですし、達磨大師が中国で面壁して九年間坐り続けたことも、今に伝わっています。古の聖者がそのようであったなら、いまの私たちがそうしない理由はありません。
ですから、言葉にとらわれて学問や理屈を追いかける修行はやめるべきです。ただ静かに内面を照らし、自己に立ち返る後ろ向きの歩み(反省)を学ぶべきです。そうすれば、身と心は自然に脱ぎ捨てられて、本来の自分の姿があらわになるでしょう。
このような境地を得たいと願うなら、まずはこのような修行をひたすら実践すべきです。
禅の修行をするには、静かで落ち着いた部屋がふさわしく、飲食も控えめにします。あらゆる関係や雑事から離れ、善いか悪いか、正しいか間違っているかといった分別をやめることです。心や意識のはたらきを止め、思考や感情、観念のはたらきを測ろうとしないこと。そして仏になろうとする心さえ起こしてはいけません。坐る・立つといった姿勢にこだわる必要もありません。
日常の坐る場所には、厚手の敷物を敷き、その上に座布団を置きます。姿勢は、結跏趺坐(両足を交差して腿の上にのせる)または半跏趺坐(片足だけ腿にのせる)のいずれかにします。
結跏趺坐は、まず右足を左の腿の上に置き、次に左足を右の腿の上にのせます。半跏趺坐は、左足だけを右の腿にのせます。衣をゆったりと着て整え、姿勢を正しく保ちます。右手を左足の上に置き、その上に左手のひらを重ねて、両方の親指の先を軽く触れ合わせて輪を作ります。
上体をまっすぐにして、身体が左右や前後に傾かないようにします。耳と肩が一直線になり、鼻とへそも一直線になるようにします。舌は上あごにつけ、唇と歯を軽く閉じ、目は閉じずにうっすらと開けておきます。
呼吸は自然に静かに通します。身体を整えた後、一度深く息を吐き、軽く体を左右に揺らしてから、静かに安定して坐ります。そして、考えることの及ばない“思わないところ”を思うように努めてください。“思わないところ”をどう思うのか? ― それは「思わない」ことです。これがまさに坐禅の核心です。
坐禅とは、学ぶための修行ではありません。ただ安らかで満ち足りた仏法の扉なのです。それは、菩提(さとり)を極め尽くす修行であり、真理はすでにここに現れています。思考や理屈の枠にはおさまりません。
この意を得たなら、龍が水を得たように、虎が山によりかかるように、自然で自由な境地に至るでしょう。まさに知るべきです。正しい仏法は自然と現れ、心の混乱や昏さは一気に消え去るということを。
坐禅を終えて立ち上がるときは、ゆっくりと体を動かし、落ち着いて立ち上がってください。決して急に動かしてはいけません。
過去において、常識を超えた聖人たちが、坐ったまま悟りを得て命を終えたり、立ったまま涅槃に入ったという事例もあります。それらはすべて、この坐禅の力によるのです。ましてや、禅師が弟子を導くために棒や拳で教える瞬間や、公案(禅の問い)を通しての悟りも、思考や知識では理解できるものではありません。
それは神秘的な力や知識でも、感覚的な見聞でもない、もっと根本的な「在り方」なのです。
ですから、頭の良し悪しや、賢い・鈍いといった区別は無用です。誰であっても、ひたすら努力すれば、それが仏道に入ることになります。修行と悟りはもともと汚れなく、特別な志向性も必要ない、日常の中にあるのです。
仏法は、どこであれ平等に伝えられてきました。どの国でも、真理をしっかりと受け継いでいます。ただひたすら坐ることに集中して、外から何かを得ようとせず、無駄に他の国や場所にあこがれる必要もありません。
自分の坐る場所を見失い、外の世界に迷い出ることは、たった一歩の誤りで、仏道から大きく外れてしまうことになります。
今すでに、人として生まれるという貴重な機会を得ています。この貴重な時間をむだに過ごしてはいけません。仏道の核心に触れる機会を大切にし、誰が一瞬の火花のような人生をむなしく楽しむでしょうか。
それだけではありません。身体のかたちは草の露のように儚く、命の運びは電光石火のように一瞬です。たちまち消えてなくなるのです。
どうか、禅の修行を志す方々よ。長く見かけ倒しの形ばかりの修行に慣れて、本当の仏道(真龍)を疑うようなことがありませんように。真っ直ぐに本質を目指して精進し、知識にとらわれない「無学・無為」のあり方を尊びなさい。仏たちが到達した悟りの世界に一致し、祖師たちが継承してきた禅定(サマーディ)の法を正しく継ぎなさい。
長くこのように坐っていれば、自然とそうなっていくのです。あなたの中にある宝の蔵は自ずと開かれ、心も体も自由に、望むままにその宝を使えるようになるでしょう。
『普勧坐禅儀』(全文)
原(たず)ぬるにそれ、道本円通(どうもとえんづう)いかでか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗自在(しゅうじょうじざい)なんぞ功夫(くふう)を費さん。いわんや、全体はるかに塵埃(じんない)を出づ、たれか払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。おおよそ当処を離れず、あに修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。
しかれども、毫釐(ごうり)も差あれば天地はるかに隔り、違順(いじゅん)わずかに起れば紛然(ふんぜん)として心を失す。たとい、会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして、瞥地(べっち)の智通(ちづう)を獲(え)、道を得(え)、心を明らめて衝天(しょうてん)の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にゅっとう)の辺量(へんりょう)に逍遥(しょうよう)すといえども、ほとんど出身の活路を虧闕(きけつ)す。
いわんや、かの祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐(たんざ)六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名(しょうみょう)なお聞こゆ。古聖すでにしかり、今人(こんじん)なんぞ弁ぜざる。ゆえに、すべからく言(こと)を尋ね、語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。すべからく、回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼(いんも)の事を務めよ。
それ、参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり。諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。あに坐臥(ざが)に拘わらんや。
尋常(よのつね)、坐処(ざしょ)には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。あるいは結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)。いわく結跏趺坐は、まず右の足をもって左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、ただ左の足をもって右の腿を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安ず。両の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相拄(あいさそ)う。
すなわち正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち、右に傾き、前に躬(くぐま)り、後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて、唇齒(しんし)相著(あいつ)け、目は、すべからく常に開くべし。
鼻息(びそく)微かに通じ、身相(しんそう)既に調えて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(さゆうようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、この不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底、如何(いかん)が思量せん。非思量(ひしりょう)。これすなわち坐禅の要術なり。
いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。公案現成(こうあんげんじょう)、羅籠(らろう)いまだ到らず。もし、この意を得ば、龍の水を得るがごとく、虎の山に靠(よ)るに似たり。まさに知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)まず撲落(ぼくらく)することを。もし、坐より立たば、徐徐(じょじょ)として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。
かつて観る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、この力に一任することを。いわんや、また指竿針鎚(しかんしんつい)を拈ずるの転機、仏拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、いまだこれ思量分別のよく解するところにあらず。あに、神通修証(じんづうしゅしょう)のよく知るところとせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし。なんぞ知見の前(さき)の軌則にあらざるものならんや。
しかれば則ち、上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶことなかれ。専一に功夫(くふう)せば、まさにこれ弁道(べんどう)なり。修証(しゅしょう)自(おのずか)ら染汙(ぜんな)せず、趣向(しゅこう)さらにこれ平常(びょうじょう)なるものなり。
およそそれ、自界他方(じかいたほう)、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印を持し、もっぱら宗風を擅(ほしいまま)にす。ただ打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。万別千差というといえども、祗管(しかん)に参禅弁道すべし。なんぞ自家の坐牀(ざしょう)を抛却(ほうきゃく)して、みだりに他国の塵境(じんきょう)に去来せん。もし一歩を錯(あやま)れば、当面に蹉過(しゃか)す。
すでに人身の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ることなかれ。仏道の要機を保任す、誰かみだりに石火を楽まん。しかのみならず、形質(ぎょうしつ)は草露のごとく、運命は電光に似たり。倐忽(しゅくこつ)としてすなわち空じ、須臾(しゅゆ)にすなわち失す。
冀(こいねがわ)くは、それ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習って真龍(しんりゅう)を怪むことなかれ。直指端的(じきしたんてき)の道に精進し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴し、仏仏の菩提に合沓(がっとう)し、祖祖の三昧を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為さば、すべからくこれ恁麼(いんも)なるべし。宝蔵(ほうぞう)自(おのずか)ら開けて、受用(じゅゆう)如意(にょい)ならん。
『普勧坐禅儀』現代語訳(全文)
もともと、道というものはすでに円満に通じていて、何か修行や悟りを仮りに必要とするものではありません。仏の教えは本来自由自在であり、どうして苦労して努力する必要があるでしょうか。ましてや、はるかに迷いの世界を離れているというのに、どうして煩悩を払う方法など信じるでしょうか。
つまり、今いるこの場所から離れることなく、本来、修行に足を運ぶ必要などないのです。
しかしながら、ほんのわずかな違いでも、天と地ほどの隔たりが生まれます。少しでも迷いや逆らいの心が起これば、たちまち心が混乱して迷ってしまいます。たとえ仏法を理解して悟りが豊かになり、一瞬にして智慧を得、真理の道をつかんで、心を明らかにし、天をつくような志を立て、仏道の入り口を自由に行き来できるようになったとしても、本当に生きた仏の命(本質)に触れる道を失ってしまうかもしれません。
ましてや、釈迦が悟りを得たときの六年間の端坐の跡を見れば明らかですし、達磨大師が中国で面壁して九年間坐り続けたことも、今に伝わっています。古の聖者がそのようであったなら、いまの私たちがそうしない理由はありません。
ですから、言葉にとらわれて学問や理屈を追いかける修行はやめるべきです。ただ静かに内面を照らし、自己に立ち返る後ろ向きの歩み(反省)を学ぶべきです。そうすれば、身と心は自然に脱ぎ捨てられて、本来の自分の姿があらわになるでしょう。
このような境地を得たいと願うなら、まずはこのような修行をひたすら実践すべきです。
禅の修行をするには、静かで落ち着いた部屋がふさわしく、飲食も控えめにします。あらゆる関係や雑事から離れ、善いか悪いか、正しいか間違っているかといった分別をやめることです。心や意識のはたらきを止め、思考や感情、観念のはたらきを測ろうとしないこと。そして仏になろうとする心さえ起こしてはいけません。坐る・立つといった姿勢にこだわる必要もありません。
日常の坐る場所には、厚手の敷物を敷き、その上に座布団を置きます。姿勢は、結跏趺坐(両足を交差して腿の上にのせる)または半跏趺坐(片足だけ腿にのせる)のいずれかにします。
結跏趺坐は、まず右足を左の腿の上に置き、次に左足を右の腿の上にのせます。半跏趺坐は、左足だけを右の腿にのせます。衣をゆったりと着て整え、姿勢を正しく保ちます。右手を左足の上に置き、その上に左手のひらを重ねて、両方の親指の先を軽く触れ合わせて輪を作ります。
上体をまっすぐにして、身体が左右や前後に傾かないようにします。耳と肩が一直線になり、鼻とへそも一直線になるようにします。舌は上あごにつけ、唇と歯を軽く閉じ、目は閉じずにうっすらと開けておきます。
呼吸は自然に静かに通します。身体を整えた後、一度深く息を吐き、軽く体を左右に揺らしてから、静かに安定して坐ります。そして、考えることの及ばない“思わないところ”を思うように努めてください。“思わないところ”をどう思うのか? ― それは「思わない」ことです。これがまさに坐禅の核心です。
坐禅とは、学ぶための修行ではありません。ただ安らかで満ち足りた仏法の扉なのです。それは、菩提(さとり)を極め尽くす修行であり、真理はすでにここに現れています。思考や理屈の枠にはおさまりません。
この意を得たなら、龍が水を得たように、虎が山によりかかるように、自然で自由な境地に至るでしょう。まさに知るべきです。正しい仏法は自然と現れ、心の混乱や昏さは一気に消え去るということを。
坐禅を終えて立ち上がるときは、ゆっくりと体を動かし、落ち着いて立ち上がってください。決して急に動かしてはいけません。
過去において、常識を超えた聖人たちが、坐ったまま悟りを得て命を終えたり、立ったまま涅槃に入ったという事例もあります。それらはすべて、この坐禅の力によるのです。ましてや、禅師が弟子を導くために棒や拳で教える瞬間や、公案(禅の問い)を通しての悟りも、思考や知識では理解できるものではありません。
それは神秘的な力や知識でも、感覚的な見聞でもない、もっと根本的な「在り方」なのです。
ですから、頭の良し悪しや、賢い・鈍いといった区別は無用です。誰であっても、ひたすら努力すれば、それが仏道に入ることになります。修行と悟りはもともと汚れなく、特別な志向性も必要ない、日常の中にあるのです。
仏法は、どこであれ平等に伝えられてきました。どの国でも、真理をしっかりと受け継いでいます。ただひたすら坐ることに集中して、外から何かを得ようとせず、無駄に他の国や場所にあこがれる必要もありません。
自分の坐る場所を見失い、外の世界に迷い出ることは、たった一歩の誤りで、仏道から大きく外れてしまうことになります。
今すでに、人として生まれるという貴重な機会を得ています。この貴重な時間をむだに過ごしてはいけません。仏道の核心に触れる機会を大切にし、誰が一瞬の火花のような人生をむなしく楽しむでしょうか。
それだけではありません。身体のかたちは草の露のように儚く、命の運びは電光石火のように一瞬です。たちまち消えてなくなるのです。
どうか、禅の修行を志す方々よ。長く見かけ倒しの形ばかりの修行に慣れて、本当の仏道(真龍)を疑うようなことがありませんように。真っ直ぐに本質を目指して精進し、知識にとらわれない「無学・無為」のあり方を尊びなさい。仏たちが到達した悟りの世界に一致し、祖師たちが継承してきた禅定(サマーディ)の法を正しく継ぎなさい。
長くこのように坐っていれば、自然とそうなっていくのです。あなたの中にある宝の蔵は自ずと開かれ、心も体も自由に、望むままにその宝を使えるようになるでしょう。
『普勧坐禅儀』(全文)
原(たず)ぬるにそれ、道本円通(どうもとえんづう)いかでか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗自在(しゅうじょうじざい)なんぞ功夫(くふう)を費さん。いわんや、全体はるかに塵埃(じんない)を出づ、たれか払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。おおよそ当処を離れず、あに修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。
しかれども、毫釐(ごうり)も差あれば天地はるかに隔り、違順(いじゅん)わずかに起れば紛然(ふんぜん)として心を失す。たとい、会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして、瞥地(べっち)の智通(ちづう)を獲(え)、道を得(え)、心を明らめて衝天(しょうてん)の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にゅっとう)の辺量(へんりょう)に逍遥(しょうよう)すといえども、ほとんど出身の活路を虧闕(きけつ)す。
いわんや、かの祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐(たんざ)六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名(しょうみょう)なお聞こゆ。古聖すでにしかり、今人(こんじん)なんぞ弁ぜざる。ゆえに、すべからく言(こと)を尋ね、語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。すべからく、回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼(いんも)の事を務めよ。
それ、参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり。諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。あに坐臥(ざが)に拘わらんや。
尋常(よのつね)、坐処(ざしょ)には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。あるいは結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)。いわく結跏趺坐は、まず右の足をもって左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、ただ左の足をもって右の腿を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安ず。両の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相拄(あいさそ)う。
すなわち正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち、右に傾き、前に躬(くぐま)り、後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて、唇齒(しんし)相著(あいつ)け、目は、すべからく常に開くべし。
鼻息(びそく)微かに通じ、身相(しんそう)既に調えて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(さゆうようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、この不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底、如何(いかん)が思量せん。非思量(ひしりょう)。これすなわち坐禅の要術なり。
いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。公案現成(こうあんげんじょう)、羅籠(らろう)いまだ到らず。もし、この意を得ば、龍の水を得るがごとく、虎の山に靠(よ)るに似たり。まさに知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)まず撲落(ぼくらく)することを。もし、坐より立たば、徐徐(じょじょ)として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。
かつて観る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、この力に一任することを。いわんや、また指竿針鎚(しかんしんつい)を拈ずるの転機、仏拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、いまだこれ思量分別のよく解するところにあらず。あに、神通修証(じんづうしゅしょう)のよく知るところとせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし。なんぞ知見の前(さき)の軌則にあらざるものならんや。
しかれば則ち、上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶことなかれ。専一に功夫(くふう)せば、まさにこれ弁道(べんどう)なり。修証(しゅしょう)自(おのずか)ら染汙(ぜんな)せず、趣向(しゅこう)さらにこれ平常(びょうじょう)なるものなり。
およそそれ、自界他方(じかいたほう)、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印を持し、もっぱら宗風を擅(ほしいまま)にす。ただ打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。万別千差というといえども、祗管(しかん)に参禅弁道すべし。なんぞ自家の坐牀(ざしょう)を抛却(ほうきゃく)して、みだりに他国の塵境(じんきょう)に去来せん。もし一歩を錯(あやま)れば、当面に蹉過(しゃか)す。
すでに人身の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ることなかれ。仏道の要機を保任す、誰かみだりに石火を楽まん。しかのみならず、形質(ぎょうしつ)は草露のごとく、運命は電光に似たり。倐忽(しゅくこつ)としてすなわち空じ、須臾(しゅゆ)にすなわち失す。
冀(こいねがわ)くは、それ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習って真龍(しんりゅう)を怪むことなかれ。直指端的(じきしたんてき)の道に精進し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴し、仏仏の菩提に合沓(がっとう)し、祖祖の三昧を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為さば、すべからくこれ恁麼(いんも)なるべし。宝蔵(ほうぞう)自(おのずか)ら開けて、受用(じゅゆう)如意(にょい)ならん。