書道
書道
異様の字を好んではならない
邪僻を離れて、正しい姿をひたすら追い求めるべき
「履正不畏」(正を履んで畏れず)
自ら正しいと信じることを、何ものも畏れず勇気と責任をもって実践すること。
「勤労愛好」
勉学に全力を尽くし、人類の文化を継承発展させ、国家社会に貢献すること。
「報本反始」(本に報い始めに反る)
初心にかえり、今日の自分があるのは縁ある人々(ご両親や恩師)のお陰であるという感謝と報恩の念を持ち、行動の指針とすること。
邪僻を離れて、正しい姿をひたすら追い求めるべき
「履正不畏」(正を履んで畏れず)
自ら正しいと信じることを、何ものも畏れず勇気と責任をもって実践すること。
「勤労愛好」
勉学に全力を尽くし、人類の文化を継承発展させ、国家社会に貢献すること。
「報本反始」(本に報い始めに反る)
初心にかえり、今日の自分があるのは縁ある人々(ご両親や恩師)のお陰であるという感謝と報恩の念を持ち、行動の指針とすること。
入木道とは、厳しさより優しさ、強さより弱さ、厳しさより優しさを重視して、全部を使い、深みや奥行きを出して、最大限を出し切る事
お手本は一部分を完璧にしてから次へすすむ
お手本は、一段一段お習いにならねばならないということ
お手本一巻を、始めから終わりまで一度に通して習うようなことをなさってはいけません
まず、詩の一首か二首程度を、数日間何回もくり返しくり返しお稽古なされ、お手本の筆遣いや形が明らかにはっきりと心の中に浮かんで、ご覧にならなくても手本通りに書けるようになってから、だんだんとそのあとの方もお習いなさい。
お手本は、一段一段お習いにならねばならないということ
お手本一巻を、始めから終わりまで一度に通して習うようなことをなさってはいけません
まず、詩の一首か二首程度を、数日間何回もくり返しくり返しお稽古なされ、お手本の筆遣いや形が明らかにはっきりと心の中に浮かんで、ご覧にならなくても手本通りに書けるようになってから、だんだんとそのあとの方もお習いなさい。
孔子こうしの言葉に、「七十になって、心のままに行動しても法度を越えない。」とあるのもこのことです。
書道のお稽古も、筆遣いをもっとも重要なこととしています。
書に優れた人たちは、起筆のところ、終筆のところ、転折のところ、はねるところ、このような節々に注意して、気を込めて書きます。
古の能書すなわち優れた書家たちの筆遣いは、すみずみまで気力がこもっていて、弱いところがありません。起筆から終筆まで、どの点画にも心を集中し、気の抜いた所がないように書くものです。
能書でない人たちの書いたものは、木などを折り曲げたようで、筆の働きが生き生きとしません。
結局、一つの点画を書くごとに、その点画に寄せる優れた書家たちの心づかいを考えると、いいかげんな点などがあってはなりません。一つの所でもいいかげんな所があると、一字全体が悪く見えます。一字全体を不注意に書いてしまうと、全体がいい加減なものになってしまいます。
書道のお稽古も、筆遣いをもっとも重要なこととしています。
書に優れた人たちは、起筆のところ、終筆のところ、転折のところ、はねるところ、このような節々に注意して、気を込めて書きます。
古の能書すなわち優れた書家たちの筆遣いは、すみずみまで気力がこもっていて、弱いところがありません。起筆から終筆まで、どの点画にも心を集中し、気の抜いた所がないように書くものです。
能書でない人たちの書いたものは、木などを折り曲げたようで、筆の働きが生き生きとしません。
結局、一つの点画を書くごとに、その点画に寄せる優れた書家たちの心づかいを考えると、いいかげんな点などがあってはなりません。一つの所でもいいかげんな所があると、一字全体が悪く見えます。一字全体を不注意に書いてしまうと、全体がいい加減なものになってしまいます。
つまり能書の筆跡は生き生きとして生物のようです。心や魂の入っているもののように見えます。
字の大きさは実際の大きさよりも大きく見えます。これは、筆の働きが十分にそなわっているからでございます。
昔の優れた書家たちの筆遣いの方法を知らず、口伝を受けず、どっちつかずの態度で書の道にたずさわっている者は、多くの場合、正しい道からはずれて必ずよこしまなかたよった心を起こします。
字の大きさは実際の大きさよりも大きく見えます。これは、筆の働きが十分にそなわっているからでございます。
昔の優れた書家たちの筆遣いの方法を知らず、口伝を受けず、どっちつかずの態度で書の道にたずさわっている者は、多くの場合、正しい道からはずれて必ずよこしまなかたよった心を起こします。
邪僻を離れて、正しい姿をひたすら追い求めるべき
古筆を見ても、極めて自然でおだやかな美しい所を学ばずに、上手な振りをして威勢の良い筆遣いをし、一寸見ると華やかに見える工夫をこらした目新しさを求めて書き写そうとするのです。この道の真意は、どうしても言葉では言い表せないところです。
能書の位置に到達してしまってからの書きようは、いずれにせよ思いのままです。どのように書いても優れた文字です。
これを正しい道からはずれた習い方をしますと、正しい書法を習得することができないで、一見して目立つところを似せるだけとなってしまい、極めて悪くなるのです。
異様な書法に目を向けないで、ひたすら一筋に正しい道に従って、正しい基本を習いますと、その筆遣いに熟練しますが、そのあとは古筆優れたの自由で伸び伸びとした姿も、心のままに書くことができるようになります。
古筆を見ても、極めて自然でおだやかな美しい所を学ばずに、上手な振りをして威勢の良い筆遣いをし、一寸見ると華やかに見える工夫をこらした目新しさを求めて書き写そうとするのです。この道の真意は、どうしても言葉では言い表せないところです。
能書の位置に到達してしまってからの書きようは、いずれにせよ思いのままです。どのように書いても優れた文字です。
これを正しい道からはずれた習い方をしますと、正しい書法を習得することができないで、一見して目立つところを似せるだけとなってしまい、極めて悪くなるのです。
異様な書法に目を向けないで、ひたすら一筋に正しい道に従って、正しい基本を習いますと、その筆遣いに熟練しますが、そのあとは古筆優れたの自由で伸び伸びとした姿も、心のままに書くことができるようになります。
お手本は一部分を完璧にしてから次へすすむ
また、手本より文字は大きくなって、点画すなわち線は細めになってしまうものです。これが良くありません。
理想は手本より小さく、線は太く
筆遣いは大切である
筆遣づかいによって、良い書であるか、わるい書であるかにわかれるのです。
結局、習い方の良い人は、字形と筆遣いに矛盾が見られず、両者にずれがありません。
習い方が悪い人は、文字の形を似せようとするので、その形は似ますが、筆勢を表現することができないので、気力がないようなものです。これは、形は似ているがつまらないものです。
外側より内側を似せる:形よりも気力を似せる
例えば、文字の形は人の顔かたちであり、筆勢は人の心の動きとか行いのようなものです。結局、いろいろな道の学習は、心に関する行為ですから、昔の賢人の心にもとづいて、よくその道を学べば、自然に優れてまいります。
また、手本より文字は大きくなって、点画すなわち線は細めになってしまうものです。これが良くありません。
理想は手本より小さく、線は太く
筆遣いは大切である
筆遣づかいによって、良い書であるか、わるい書であるかにわかれるのです。
結局、習い方の良い人は、字形と筆遣いに矛盾が見られず、両者にずれがありません。
習い方が悪い人は、文字の形を似せようとするので、その形は似ますが、筆勢を表現することができないので、気力がないようなものです。これは、形は似ているがつまらないものです。
外側より内側を似せる:形よりも気力を似せる
例えば、文字の形は人の顔かたちであり、筆勢は人の心の動きとか行いのようなものです。結局、いろいろな道の学習は、心に関する行為ですから、昔の賢人の心にもとづいて、よくその道を学べば、自然に優れてまいります。
折れ・曲がり・横・縦について一つ一つを気ままにせず、先人の残した学習方法に従って筆を下ろしますと、自然に熟達してまいります。
お稽古の初めは、居ずまいを正し、筆を静かに運び、よくよく心をこめて練習をなさいませ。ご熟達になった後は、筆に任せてお書きになっても、筆法から外れることはありません。
それであるからこそまた、この一か条「古賢の筆遣いを会得すること」は重要でございます。
結局、一つの点画を書くごとに、その点画に寄せる優れた書家たちの心づかいを考えると、いいかげんな点などがあってはなりません。一つの所でもいいかげんな所があると、一字全体が悪く見えます。一字全体を不注意に書いてしまうと、全体がいい加減なものになってしまいます。
古の能書たちの筆遣いは、ただ自然を手本としたのです。王羲之の用筆の図に、今述べてきたような筆遣いで書いて老木を思わせる線を、万歳の枯藤と申しております。:雰囲気や自然をそのままに
つまり能書の筆跡は生き生きとして生物のようです。心や魂の入っているもののように見えます。
目先がちょっと変わっただけの趣を基本としますと、本当に正しく美しい趣としての変化も、美しく書き写すことができません。
本当に正しくて美しいプレーを目指す
見て分からない人すなわち鑑識眼のない人は、その見えた姿だけを単純に似ていると見ますけれども、書の道の本質をわかっている人の鑑識眼から見れば、似ても似つかないものです。
美しく書こうとして、筆を整えてふるえるほど懸命に書いても、か弱く、見るに堪えないもので、まったく美しくは見えません。また、強く見せようとして筆を紙に強く当てるのですが、筆を下手に使うので、ただ乱暴で乱れたものになります。さっぱり強いところがありません。
このようなことを、「外道の邪見」すなわち「正しい道以外のことに従うよこしまな考え」などと申します。これは正しい書の道のためには障害です。
書道に限らず、芸道は、実は仏法の悟りから起こったものです。仏法の悟りから起こって、世間の技芸などのようなものに出現しては、管絃、音曲、詩歌などとなり、どれもこれも、諸芸術での邪僻じゃへきと正路が現れるのはこのことです。
何を本質とするのか、よろしく取捨選択ください。全ての事に、二つの道理はありません。その悟さとりは一つです。だかた、あらゆるものは外にあらわれてはいろいろな形をとるけれども、その真実のすがたは宇宙の本体という一つのものに帰するという仏法の思想と通じます。
したがって、そのような字を書く才能があれば、世間の人もこれをもてはやし、自分自身も興趣にのってしまって、まるでそれが本筋のようになり、本来の稽古は二の次になってしまうので、よくよくそのようなことは差し控えてください。
このようなことを好む人の筆跡は、ちょっとしたものを書いたときは、一応立派そうに見えるが、厳格なものを書いた清書などはどうしても自分の力の劣ったのが現れます。
けれども、ただひたすら何度も美しく正しく書くことが大事なことです。
これらの異様なことを好んで用いるのは容易なことです。
入木の正しい道は遠く、また追い求め難く、よこしまな道は近く歩みやすく感じ、そういう意味で才能のある人のあってはならないことです。ようよく慎まねばなりません。
その上、下手な所もよくよく見極めて、ご自分で直されますと、次第に意図にそった文字が書けるようになるでしょう。
間違い直しノートを作る
また、そのようにして置かれたのを、一つ一つ私の方におよこし下されば、それについてのご批評を申し上げます。
稽古をしている間に、常に善悪が起こってくること
初歩のうちは、手習いを致しますと、急に筆が渋滞し、字形も手本に似なくなります。必ず思ったように書けなくなるものです。
その時に、なんとなくいやになり、怠おこたりの心が起こります。そのようなことに目もくれずに、ただ、同じように稽古を続けますと、四、五日から十日ぐらいたつとよくなります。そうなると、今度は以前によく書けたように思ったものよりも、さらに優れた文字が書けます。
このような状態を何回か繰り返して上手になるものです。
初心のうちは、それに加えて休まないことです。「繰り返す」「休まない」という事を心掛けていると、そのうちに一段一段と腕前が上がっていくものです。
三賢さんけん(三跡さんせきのこと)すなわち小野道風・藤原佐理・藤原行成の筆跡だからといって、手本とするについて注意しなければならないことがあります。初歩の人が、先生に相談せずに三賢のこの手本はおもしろい、この字は興味があるとかいって習っても、上達するとは限りません。三賢の立派なしょでも、時によって筆遣いは同じではありません。
何はともあれ、達人の書として書かれているものであるので、すばらしいのですが、お手本として習わねばならない書風もあります。
初歩の人では習ってはならない筆体もあります
多くの手本をご覧になるのは大切なことです。
お稽古には、多くの手本のなかからどれか一つの手本をお決めになって、それを基本として習い、その他に数種類のお手本をご覧になって参考にいたしますと勉強になるでしょう。
まず、この入木道をどのように心得、自分の才能はどの程度であるかを理解して稽古をするべきで、勝手気ままに習い方を決めて、それに自分を合わせるべきではないのです。
仏法を学ぶ者も、仏や有徳の先人の悟りの跡を探り、仏の奥深い知恵、通達した見識を悟り極めようと学びますので、更にその行きつく果ては無いのです。
太宗の言葉に、「目標を上に置けば中ほどにとどまり、中に置けばせいぜい下程度にしか達しない。」とあるのもこの意味です。
いくら良い唐墨でも、取り扱いが悪ければすぐにでも痛みます。包まずに塗り物に入れておき、使い終わったら常によく拭くようにします。
これは最上の秘事です。
日本では、常に過去の事跡を受け継いで、国風を失いません。
前代の旧風を改めて、新しい時代の風俗を広めさせます。もちろん書風もみな改めます。硯の作り方でも、昔と今とでは違います。
国風という書の本質は変わっていません。ただ、時代にしたがって次第に変化したように外見は見えますけれども、その実質はまったく同じものであります。
文字は、みずみずしくつやをもって書くべきである。きっぱりとしてつやに欠けるものは、見ためがよくないものである。
お稽古の初めは、居ずまいを正し、筆を静かに運び、よくよく心をこめて練習をなさいませ。ご熟達になった後は、筆に任せてお書きになっても、筆法から外れることはありません。
それであるからこそまた、この一か条「古賢の筆遣いを会得すること」は重要でございます。
結局、一つの点画を書くごとに、その点画に寄せる優れた書家たちの心づかいを考えると、いいかげんな点などがあってはなりません。一つの所でもいいかげんな所があると、一字全体が悪く見えます。一字全体を不注意に書いてしまうと、全体がいい加減なものになってしまいます。
古の能書たちの筆遣いは、ただ自然を手本としたのです。王羲之の用筆の図に、今述べてきたような筆遣いで書いて老木を思わせる線を、万歳の枯藤と申しております。:雰囲気や自然をそのままに
つまり能書の筆跡は生き生きとして生物のようです。心や魂の入っているもののように見えます。
目先がちょっと変わっただけの趣を基本としますと、本当に正しく美しい趣としての変化も、美しく書き写すことができません。
本当に正しくて美しいプレーを目指す
見て分からない人すなわち鑑識眼のない人は、その見えた姿だけを単純に似ていると見ますけれども、書の道の本質をわかっている人の鑑識眼から見れば、似ても似つかないものです。
美しく書こうとして、筆を整えてふるえるほど懸命に書いても、か弱く、見るに堪えないもので、まったく美しくは見えません。また、強く見せようとして筆を紙に強く当てるのですが、筆を下手に使うので、ただ乱暴で乱れたものになります。さっぱり強いところがありません。
このようなことを、「外道の邪見」すなわち「正しい道以外のことに従うよこしまな考え」などと申します。これは正しい書の道のためには障害です。
書道に限らず、芸道は、実は仏法の悟りから起こったものです。仏法の悟りから起こって、世間の技芸などのようなものに出現しては、管絃、音曲、詩歌などとなり、どれもこれも、諸芸術での邪僻じゃへきと正路が現れるのはこのことです。
何を本質とするのか、よろしく取捨選択ください。全ての事に、二つの道理はありません。その悟さとりは一つです。だかた、あらゆるものは外にあらわれてはいろいろな形をとるけれども、その真実のすがたは宇宙の本体という一つのものに帰するという仏法の思想と通じます。
したがって、そのような字を書く才能があれば、世間の人もこれをもてはやし、自分自身も興趣にのってしまって、まるでそれが本筋のようになり、本来の稽古は二の次になってしまうので、よくよくそのようなことは差し控えてください。
このようなことを好む人の筆跡は、ちょっとしたものを書いたときは、一応立派そうに見えるが、厳格なものを書いた清書などはどうしても自分の力の劣ったのが現れます。
けれども、ただひたすら何度も美しく正しく書くことが大事なことです。
これらの異様なことを好んで用いるのは容易なことです。
入木の正しい道は遠く、また追い求め難く、よこしまな道は近く歩みやすく感じ、そういう意味で才能のある人のあってはならないことです。ようよく慎まねばなりません。
その上、下手な所もよくよく見極めて、ご自分で直されますと、次第に意図にそった文字が書けるようになるでしょう。
間違い直しノートを作る
また、そのようにして置かれたのを、一つ一つ私の方におよこし下されば、それについてのご批評を申し上げます。
稽古をしている間に、常に善悪が起こってくること
初歩のうちは、手習いを致しますと、急に筆が渋滞し、字形も手本に似なくなります。必ず思ったように書けなくなるものです。
その時に、なんとなくいやになり、怠おこたりの心が起こります。そのようなことに目もくれずに、ただ、同じように稽古を続けますと、四、五日から十日ぐらいたつとよくなります。そうなると、今度は以前によく書けたように思ったものよりも、さらに優れた文字が書けます。
このような状態を何回か繰り返して上手になるものです。
初心のうちは、それに加えて休まないことです。「繰り返す」「休まない」という事を心掛けていると、そのうちに一段一段と腕前が上がっていくものです。
三賢さんけん(三跡さんせきのこと)すなわち小野道風・藤原佐理・藤原行成の筆跡だからといって、手本とするについて注意しなければならないことがあります。初歩の人が、先生に相談せずに三賢のこの手本はおもしろい、この字は興味があるとかいって習っても、上達するとは限りません。三賢の立派なしょでも、時によって筆遣いは同じではありません。
何はともあれ、達人の書として書かれているものであるので、すばらしいのですが、お手本として習わねばならない書風もあります。
初歩の人では習ってはならない筆体もあります
多くの手本をご覧になるのは大切なことです。
お稽古には、多くの手本のなかからどれか一つの手本をお決めになって、それを基本として習い、その他に数種類のお手本をご覧になって参考にいたしますと勉強になるでしょう。
まず、この入木道をどのように心得、自分の才能はどの程度であるかを理解して稽古をするべきで、勝手気ままに習い方を決めて、それに自分を合わせるべきではないのです。
仏法を学ぶ者も、仏や有徳の先人の悟りの跡を探り、仏の奥深い知恵、通達した見識を悟り極めようと学びますので、更にその行きつく果ては無いのです。
太宗の言葉に、「目標を上に置けば中ほどにとどまり、中に置けばせいぜい下程度にしか達しない。」とあるのもこの意味です。
いくら良い唐墨でも、取り扱いが悪ければすぐにでも痛みます。包まずに塗り物に入れておき、使い終わったら常によく拭くようにします。
これは最上の秘事です。
日本では、常に過去の事跡を受け継いで、国風を失いません。
前代の旧風を改めて、新しい時代の風俗を広めさせます。もちろん書風もみな改めます。硯の作り方でも、昔と今とでは違います。
国風という書の本質は変わっていません。ただ、時代にしたがって次第に変化したように外見は見えますけれども、その実質はまったく同じものであります。
文字は、みずみずしくつやをもって書くべきである。きっぱりとしてつやに欠けるものは、見ためがよくないものである。
貞:心が正しく安定して迷わない。正しい。
「貞固・貞実・貞純・貞廉・忠貞」
君主・夫や仏に対する心持を変えない。みさおが正しい。
「貞潔・貞淑・貞順・貞女・貞婦・貞操・貞心・貞節・貞烈・不貞」
「貞固・貞実・貞純・貞廉・忠貞」
君主・夫や仏に対する心持を変えない。みさおが正しい。
「貞潔・貞淑・貞順・貞女・貞婦・貞操・貞心・貞節・貞烈・不貞」