曹洞宗

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道元

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【慈悲】(じひ)について
「慈」はいつくしみの心
「悲」は他者の苦しみに同情して、これを救おうとする思いやり

「同事行」は人が喜んでいるときは共に喜び、人が悲しんでいるときは共に悲しむこと

「ただまさに、やわらかなる容顔をもて、一切にむかうべし」(道元)

四無量心:四つのはかりしれない他の人々を利益し、救済につとめる心、「慈、悲、喜、捨」の四つをいい、これらの心を無量におこして、無量の人々を悟りへと導くことです。

「慈」とは生けるものに楽を与えること。すべての人の幸せを願う親愛の気持ち。
「悲」とはすべての人の苦しみに同情して、これを苦しみを取り除きたいと願い、寄り添う心。
「喜」とは他人の喜びを心から喜べること。
「捨」とは人に施した恩も人から受けた害も忘れ、一切の執着を捨て去ること、愛する人にも憎む人にも同一の心を持つこと


四無量心の実践方法として「四摂法」という四つの行を説きました。
布施(施すこと)
愛語(愛のある言葉をかけること)
利行(人のために行うこと)
同事(相手と事を同じくし喜びも悲しみも同じように感じること)

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道元『正法眼蔵』 四摂法

同事
お釈迦様が人間界に人間としてお生まれになって、人間に合わせて法をお説きくださったことが同事
海が全ての水を受け入れて海となっていることを同事というのであると説明しています。

「佗をして自に同ぜしめてのちに、. 自をして佗に同ぜしむる道理あるべし」(「四抵法」)

同事行

同事というは,不違なり。自にも不違なり,他にも不違なり。

一時は空しく見える事もあるでしょう。天の流れにお任せするしかないことも多いでしょう。
素直な人ほど他を受け入れることの方に重点をおいてしまい、自分を殺して他に合わせている人もいますが、それは同事行ではありません。
菩薩行はへつらいも媚も入り込む余地はありません。

他を慈しみ苦しみを取り除いてあげたいという願いと実践です。

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菩提心を発す
人のため世のため、生きとし生けるもの全てのもののために尽くすという誓願をおこし、実践すること

世の中の衆生を利益するために、四通りの大切な法がある。

布施
心清浄にして欲の汚れを離れることである。それ故、財がなく、力がなくても、他の施すのを見て讃歎随喜するのも立派な布施行である。
自分の出来得る限りの力を分かち与えて喜捨し、しかもその代償を期待してはならない。

愛語(あいご)
愛情豊かな親切な言葉でもって、全ての衆生に語りかけることである。
心素直にして善き行いをする人を見れば、ありのままにこれを讃え、行い悪しき人に対しては、気の毒に思いこれを憐れむべきである。
怨みにおもう敵の怒りを鎮め、世の人間関係を仲睦まじく和合さすことも、慈愛の言葉が根本である。

利行(りぎょう)
貴賎貧富のわけへだてなく、平等に他を利益するためのよき手だてを廻らすこと
利行そのものは自他の隔てなく、平等に大利益を被るのである。
利行とは一つ仕組みの歯車で、あちらを回せばこちらも回る、こちらを回せばあちらも回る。回りまわって共に生きる道である。

同事(どうじ)
自己の本心にも背かず、相手の立場をも犯すことなく、共在調和、円融無碍(とどこおることなく通じて障害がない)の作用をすることである。
大慈悲心をもって他の一切のものを包容することである。この力量があってこそ、自分を他に同じうせしめることが出来る。
海が清濁併せ呑み、大河細流を全て受け入れて辞するところがないのと同様である。これによって、渺々たる大海の同一塩味となる。これが同事行の様子である。

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曹洞宗:選手一人ひとりが尊重され、公平な機会が与えられるべきですよね。
その中で、一人のスタッフが自分の好き嫌いで選手たちを扱い、暴言を吐いたり、不公平な行動をとったりすることが、いかに選手たちのモチベーションやチーム全体の雰囲気に悪影響を及ぼすかは計り知れません。ましてや、それが原因で退団する選手が出るまでに至るのは、決してあってはならないことです。

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曹洞宗(そうとうしゅう)は、日本の仏教の一派で、禅宗の一つです。道元禅師(1200-1253)によって開かれ、その後、瑩山禅師(1268-1325)によって発展しました。曹洞宗の教えと理念は以下のようにまとめられます。

1. 禅と修行
只管打坐(しかんたざ): 曹洞宗の中心的な修行法であり、何も考えずにただ座る瞑想を指します。これは、心を落ち着け、悟りの境地に達するための実践です。
日常生活の修行: 禅の修行は座禅だけにとどまらず、日常生活全体が修行の場とされています。食事や掃除、仕事など、あらゆる行為が禅の実践と見なされます。

2. 仏性と悟り
仏性: すべての人が仏性を持っており、本来の自分を見つけることが悟りであると教えています。仏性は誰もが持っている生来の清らかな心であり、修行を通じてこれを開花させることが目指されます。
即身成仏: 悟りは特別な場所や時間に限定されず、今ここで達成可能であると信じられています。座禅や日常生活の中で、瞬間瞬間に悟りを体験することができます。

3. 師弟関係
師資相承(ししそうじょう): 曹洞宗では、師から弟子への直接の教えが重視されます。師弟関係は非常に重要であり、師から受け継いだ教えや修行法を忠実に実践し、次の世代に伝えることが求められます。
法灯の伝承: 教えや修行法は、代々の師から弟子へと連綿と受け継がれてきました。この伝承が曹洞宗の修行と教えの正統性を支えています。

4. 慈悲と共生
慈悲: 他者への思いやりと慈悲の心を育むことが強調されます。自他一体の認識を深め、他者の苦しみを自らの苦しみとして感じることが重要です。
共生: 自然や他の生き物と共に生きることの大切さが説かれます。自然との調和を大切にし、持続可能な生き方を追求します。

5. 教義と文学
正法眼蔵: 道元禅師が著した「正法眼蔵」は、曹洞宗の教義を詳述した重要な経典です。禅の教えや実践、日常生活における指針が示されています。
永平寺: 福井県にある永平寺は、曹洞宗の大本山であり、多くの僧侶が修行に励む場として知られています。永平寺は道元禅師によって開かれ、その精神が現在も受け継がれています。

曹洞宗は、シンプルでありながら深遠な教えと、厳格な修行によって、心の平安と悟りを追求する宗派です。

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苦の原因はまさにこの「執着」にある

三法印
諸行無常「一切の形成されたものは無常である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。

一切皆苦「一切の形成されたものは苦しみである」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
悟りを開くまでは、すべて苦の存在である

諸法無我「一切の事物は無我である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。

これこそ人が清らかになる道である。


四諦
苦を消滅させる方法
『これは苦しみである』とありのままに知り、
『これは苦しみの原因である』とありのままに知り、
『これは苦しみの消滅である』とありのままに知り、
『これは苦しみの消滅にいたる道である』とありのままに知る

個人存在を構成する五つの執着の要素は苦しみである。

八正道
苦しみの消滅にいたる道

正しい見解(正見)
苦しみについて知ること、苦しみの原因を知ること、苦しみの消滅を知ること、苦しみの消滅にいたる道を知ること


正しい思考(正思)
煩悩を去って悟りの境地への思考、怒りのない思考、傷害のない思考


正しいことば(正語)
偽りのことばから離れること、中傷のことばから離れること、粗暴なことばから離れること、無意味な飾ったことばから離れること


正しい行動(正業)
生き物を殺すことから離れること、与えられないものを取ることから離れること、淫らな行いから離れること


正しい生活(正命)
間違った生活を捨てること、正しい生活をして生きていくこと、


正しい努力(正精進)
いまだ生じていない善くないことがらが、これから起きないようにするために意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。
いまだ生じていない善いことがらが、これから生じるようにするために意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。
すでに生じている善いことがらを、存続し、忘れずに、増大し、拡大し、修行が完成するように、意欲をおこし、努力し、努め励み、
こころを込めて努める。



正しい念(正念)
身体について身体を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気を付けて、この世における貧欲や憂いを除去すべきである。
感受に関して感受を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気を付けて、この世における貧欲や憂いを除去すべきである。
こころを観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気を付けて、この世における貧欲や憂いを除去すべきである。
もろもろの事象を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気を付けて、この世における貧欲や憂いを除去すべきである。



正しい精神統一(正定)
第一段階
さまざまな欲望を離れ、善くないことがらを離れ、粗い考察と微細な考察とをともない、遠ざかり離れることから生ずる喜びと楽しみの段階

第二段階
粗い考察と微細な考察とを静めることから内心が清浄になり、心を統一して、粗い考察と微細な考察とをともなわない精神統一から生じる喜びと楽しみ段階

第三段階
喜びを離れて、心に平静があり、よく気をつけて、正しく自覚し、身体によって楽しみを感受しながら、それを、聖者たちが「心の平静があり、よく気をつけていて、楽しみに留まっている」段階

第四段階
楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない、心の平静と気をつけることによって浄められている段階

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休息

「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を菅すること莫(なか)れ」

あらゆる縁や付き合いなどすべてを手放し捨てて、あれやこれや思い煩う心の活動を休んでみなさい。
物事の善し悪しといった相対的な分別からも離れなさい。

要するに何もかも捨てきって捨てきって、捨てるという意識すら捨ててしまいなさいということ。

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向上心

「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり」

「自己をならう」とは、「自己を知り、自己を超える」

自らのルーツも含め、人生そのものを知り、人生におけるあらゆる苦悩を見届け、それを超えることにほかありません。

その手段として、仏教が挙げられます。
決して、幸福実現のため、お金や物、病の治癒、人間関係の修復などの手段として仏教を拠り所とするのでなく、自らを振り返り、自らを見つめ直し、自らに問い掛けるものでなければなりません。

その実践として、自分自身について客観的な智慧や知識が増え、新しい物の見方で自らを捉え直せるようになり、自ずと今までの苦悩が小さく感じられ、偏った価値観を捨て去ることができるのです。

仏教の教えを通じて自問自答を繰り返し、常に自分自身の立ち位置を見極め、自らを見失わないように軌道修正していくことが大切

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内外打成一片:内外一つ

内も外も自分の心
内も外も自分の体

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十六条戒
曹洞宗における授戒は、道元禅師の説に基づ. き、十六条をもって為されている。

「三帰戒(さんきかい)」
「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」
「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」

三帰戒(さんきかい)
南無帰依仏(なむきえぶつ)お釈迦様を拠り所といたします
南無帰依法(なむきえほう)お釈迦様が説いた教え=法を大切にいたします
南無帰依僧(なむきえそう)お釈迦様が説いた法を実践する仲間を大切にいたします

三棗浄戒(さんじゅじょうかい)
摂律俄戒(しょうりつぎかい)清き心を持ち一切の悪事を働きません
摂善法戒(しょうぜんほうかい)清き心を持ち一切の善行にはげみます
摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)清き心を持ち世の為人の為に尽くします

十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)
不殺生戒(ふせっしょうかい)無駄な殺生はいたしません
不倫盗戒(しょうぜんほうかい)人のものを 盗んではいけない。
不邪淫戒(しょうしゅじょうかい)不貞行為(不倫)を行ってはいけない。
妄語戒(ふもうごかい)うそ偽りをもうしません
不酷酒戒(ふこしゅかい)酒に溺れるようなことはいたしません
不説過戒(ふせっかかい)人の過ちを責め立てません
不自賛毀他戒(ふじさんきたかい)自らを誇り他人をけなすことはいたしません
不慳法財戒(ふけんほうざいかい)物でも心でも施すことを惜しみません
不瞋恚戒(ふしんいかい) 怒りに燃えて自らを失いません
不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)仏法僧の三宝を誇りません

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道元禅師の「有時(うじ)」では、「時間」と「存在」は切り離せないものであり、どちらも同じものだと考えています。これを分かりやすく説明すると:

直線的な時間ではなく、今この瞬間がすべて
私たちが普段考える「時間」は、過去、現在、未来といった直線的な流れでイメージされることが多いです。でも道元は、時間がどこかを「流れていく」ものではないと言っています。

代わりに、今この瞬間にすべてが含まれていると考えます。


具体例で説明
1. 今この瞬間の「食事」 
  ・食べている「今」という瞬間には、食材が育った過去や、調理してくれた人たちの行為、さらには食べ終えた後の満足感など、すべてが含まれています。
  ・つまり、今の食事という行為の中に「過去」も「未来」もすでに存在しているのです。

2. 花が咲く一瞬 
  ・花が咲いている瞬間は、花の種が芽を出し、育ってきた過去のプロセスと、やがて散っていく未来が含まれています。
  ・花が「存在」するこの一瞬が、「時間」を体現しているのです。


存在そのものが時間、時間そのものが存在
道元は、「時間があって存在がある」のではなく、「存在そのものが時間」であり、逆に「時間そのものが存在」だと言っています。

・あなたが今ここにいるという「存在」は、その瞬間が「時間」そのものだからこそ可能です。
・逆に、「時間」という概念も、何かが存在しているからこそ感じられるのです。


一瞬一瞬が完全であり、すべて
・「今この瞬間」は単なる通過点ではなく、それ自体が完全な意味を持つ瞬間です。
・その瞬間に過去も未来も含まれており、一瞬一瞬を丁寧に生きることが大切だという教えです。


結論
「有時(うじ)」は、過去や未来を追いかけるのではなく、「今この瞬間」を大切にし、その瞬間がすべてを含んでいると気づくことが、真理を理解する道だと教えています。

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正法眼蔵における「向上心」

道元禅師の著作『正法眼蔵』は、禅の深い思想を体系的に記述した重要なテキストであり、修行者が仏道を実践するための道筋を示しています。その中で、「向上心」とも言える概念は、修行者が悟りを求めて精進し続ける心の在り方や姿勢と結びついています。

以下では、『正法眼蔵』に関連する向上心について、具体的なポイントを挙げて説明します。


1. 向上心の本質:仏道への渇仰
『正法眼蔵』では、仏道の実践は生涯をかけて行うべきものであり、修行者は常に「初心」を持ち続けることが説かれます。この初心こそ、向上心の源泉であり、自らの内面を深め、真理を求め続ける態度に直結しています。道元は、初心を「菩提心(悟りを求める心)」とも重ね合わせ、修行者が歩みを止めずに進むことの重要性を強調しています。

・引用例:「初心を忘るべからず」
 ・初心とは単なる出発点の心ではなく、向上心として常に新鮮に持ち続けるべきものとされています。


2. 日常生活と向上心の結合
道元は「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」の中に仏道があると述べ、日常生活そのものが修行であると説きました。つまり、向上心は特定の場面だけで発揮されるものではなく、日々の生活や仕事、他者との関係性の中で現れるべきものです。

・実践例:
 ・食事の準備や掃除といった日常的な行為も、修行の一環として捉える。
 ・向上心を持って丁寧に取り組むことで、自己鍛錬が深まる。


3. 向上心と無我の関係
道元は「無我」の思想を重視し、自己中心的な欲望や執着を手放すことで向上心が真に発揮されると説きました。向上心は自己の成功や名誉を追求する心ではなく、真理に基づいた成長への純粋な願いとして表れるべきです。

・具体例:
 ・修行は他者を超えようとする競争心ではなく、自己の弱さを見つめて克服すること。
 ・「無我」によって得られる謙虚さが、向上心を持続可能なものにする。


4. 向上心を育む方法:師への依存と自立
道元は、修行者が師とともに学びながら、自ら実践を通じて悟りを深めることのバランスを重視しました。師の教えを敬いながら、自らの努力によって向上心を育むことが、修行の核心です。

・関連する教え:
 ・「参禅」:師との対話を通じて、自己の未熟さを知ることが向上心を育てる。
 ・「自己参究」:独りでの瞑想や実践を深め、主体的に仏道に取り組む。


5. 向上心の結果としての「悟り」
向上心の究極的な成果は、悟りの境地に至ることですが、道元は悟りを一瞬の出来事ではなく、日々の修行の中で深化していくものと捉えました。そのため、向上心は過程そのものを大切にする心でもあります。

・悟りについての洞察:
 ・「悟りを得ようとする心」そのものが悟りへの道。
 ・向上心を持ちながらも、結果に執着しない態度が求められる。


まとめ
『正法眼蔵』における向上心は、仏道を追求する継続的な努力と謙虚な姿勢を指し、日常生活や修行のあらゆる場面で実践されます。それは自己中心的な欲望ではなく、無我と初心に基づいた純粋な成長の願いとして現れます。この向上心を持ち続けることが、真の悟りに至るための鍵となるのです。

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『正法眼蔵』において、直接的に「向上心」という言葉が登場する箇所はありません。しかし、向上心に関連する内容や概念は、以下の巻や道元の思想全体を通して論じられています。具体的には、以下の箇所が向上心と結びつけて解釈されることが多いです。


1. 「現成公案」巻
「初心を忘るべからず」という有名な教えは、この巻に由来します。この教えは、修行を始めたときの純粋な心を保ち続けることの重要性を説いたものです。この初心こそが向上心の核となります。初心を持つことで、仏道の実践が継続され、成長へとつながります。

・重要な内容:
 ・初心を大切にすることが、修行者の向上心を支える。
 ・仏道の修行は一時的なものではなく、日々新たに初心に立ち返る必要がある。


2. 「弁道話」
『正法眼蔵』と並んで重要な道元の著作『弁道話』では、修行者が仏道を志す動機や、師を求めて精進することの重要性が語られています。ここでは、仏道への純粋な情熱や向上心が、修行の原動力として強調されています。

・関連箇所:「仏道を学ぶ者は、必ずまさに大心を発すべし」
 ・「大心」とは、自己を超えて仏道を追求する心であり、向上心の核心です。


3. 「行持」巻
日常の中で仏道を実践する重要性が説かれています。「行住坐臥」の全ての行動が修行とみなされ、日々の生活を向上の場とすることが強調されます。この巻では、特別な状況でのみ向上心を持つのではなく、日々の中で常に自己を鍛える姿勢が説かれています。

・重要な内容:
 ・日常生活そのものが修行であり、向上心を発揮する場である。


4. 「発菩提心」巻
「発菩提心」は仏道の根本であり、悟りを求める心そのものです。この巻では、菩提心を発することが修行の出発点であり、それが向上心として仏道を歩むエネルギーになると説かれています。

・重要な内容:
 ・菩提心を持ち続けることが、修行者にとっての向上心となる。
 ・仏道への純粋な願いが、修行の継続と深化を支える。


5. 「悟道」巻
悟りの追求は向上心そのものであるといえます。この巻では、悟りを得る過程が重要視されており、向上心を持ち続けることで悟りに近づくことが示されています。

・重要な内容:
 ・向上心は悟りへの道筋そのものである。
 ・修行の成果を焦らず、向上心を持続することが求められる。


『正法眼蔵』の中では、直接的に「向上心」という言葉は用いられませんが、修行を続ける精神、初心を忘れない姿勢、日常を修行の場とする意識など、仏道を歩む上での根本的な態度として読み解くことができます。特に上記の巻を中心に、向上心に関する教えを探求することができるでしょう。

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『正法眼蔵』における「目標」について

道元禅師の『正法眼蔵』において、「目標」という概念は現代的な意味で具体的な到達点を指すものとしては用いられていません。しかし、仏道修行における目的や意義は、悟りや仏性の実現という形で論じられています。以下では、『正法眼蔵』に基づいて、仏道修行における「目標」の解釈や考え方を整理します。


1. 目標の本質:仏性の具現
『正法眼蔵』では、修行の目的として「仏性の具現」が中心に置かれています。道元は、「仏性(ぶっしょう)」をすべての存在が本来持っている特性と捉え、それを自覚し、日常の行動の中で発現させることを目指すべきであると説いています。

・関連する教え:「仏道をならふは自己をならふなり」
 ・仏道の目標は、自己の本質を深く理解し、真実の自分を生きることにあります。


2. 目標は「到達」ではなく「実践」
道元は、悟りや仏道の目標を「ある特定の地点に到達すること」ではなく、「その過程そのものが仏道である」と述べています。修行者は目標を外在的な成果として捉えるのではなく、日々の行動や実践の中で目標が実現されると考えます。

・引用例:「修証一如(しゅしょういちにょ)」
 ・修行(実践)と証(悟り)は一体であり、修行そのものが悟りの具現化である。


3. 仏道の目標は「一切の執着を離れること」
『正法眼蔵』では、仏道修行において執着を手放すことが強調されます。目標そのものへの執着を手放すことが、逆説的に目標に近づく道とされています。この「執着を離れる」という教えは、現代の自己実現的な目標設定とは異なる禅の独特なアプローチです。

・関連箇所:「空手道を学ぶは、自己を手放すことなり」
 ・目標を求める心が、自己中心的である限り、真の目標には到達できない。


4. 目標は「初心」に基づく
道元は、修行における「初心」を非常に重要視しました。この初心(仏道を志す純粋な心)を持ち続けることが、目標を持つことと同義であると解釈することができます。初心を忘れないことで、修行者は道を踏み外すことなく歩むことができます。

・引用例:「初心を忘るべからず」
 ・目標は初心に根ざし、初心を保ち続けることで実現される。


5. 目標は「今ここ」にある
道元の思想では、目標は未来にあるものではなく、「今ここ」での実践と結びついています。過去や未来に目を向けるのではなく、現在の行動を完全に生きることが仏道の実践であり、目標そのものです。

・関連箇所:「只管打坐(しかんたざ)」
 ・ただひたすら坐禅を行うことが、目標を追い求める心を離れ、仏道の真髄に至る道とされています。


6. 目標は「自己の枠を超えること」
道元は、自己を超えた視点で物事を捉えることを目標として提示しています。自己中心的な欲望を捨て、他者や宇宙全体との一体感を目指すことで、真の仏道を歩むことができると説いています。

・引用例:「身心脱落(しんじんだつらく)」
 ・自己という枠組みを脱ぎ捨てることが、仏道の目標の一つです。


まとめ
『正法眼蔵』における目標は、現代的な「成果を達成する」こととは異なり、悟りの実現や仏性の発現を目指す、より内面的で包括的なものです。道元の教えでは、目標は結果ではなく、日々の実践や過程そのものに宿っています。この思想は、目標に執着せず、今を生きることの大切さを私たちに示しています。

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『正法眼蔵』において、現代的な意味での「具体的な到達点」を目標として明示的に示す部分は少ないです。道元禅師の思想は、「過程そのもの」を重視するため、一般的な「目標設定」とは異なる視点を持っています。しかし、仏道修行や日常生活の中で、修行者が「目指すべき状態」や「到達すべき境地」を具体的に示唆する内容はあります。これを現代的な目標設定の枠組みに沿って解釈すると、以下のような要素が考えられます。


1. 悟り(覚醒)の実現
『正法眼蔵』における最終的な目標は、仏道修行を通じて「悟り」や「仏性」を体得することです。道元は、悟りを人生の目的として捉えながらも、それを単なる到達点としてではなく、修行そのものの中に内包されるものとしています。

・具体的な目標:
 ・自己の本性である仏性を体得する。
 ・悟りに至り、自己と世界との一体感を得る。
・関連する巻:「現成公案」「仏性」


2. 日常生活における仏道の実践
道元は、特別な場面でのみ仏道を追求するのではなく、日常生活そのものを仏道修行の場とすることを強調しました。現代的な目標としては、「具体的な行為において仏道を実践する」という形で捉えることができます。

・具体的な目標:
 ・食事を準備する際に一切の無駄を省き、心を込める(『典座教訓』参照)。
 ・日常の行動において他者への配慮と自己の向上を実践する。
・関連する巻:「行持」「洗面」


3. 身心脱落(しんじんだつらく)の達成
「身心脱落」とは、自己中心的な考えや執着を捨て、純粋な存在として生きる境地を指します。これは『正法眼蔵』において明確に示される到達点の一つであり、修行者が目指すべき状態です。

・具体的な目標:
 ・自己を超えた視点を持ち、執着から解放される。
 ・無我の境地で行動し、自然体で生きる。
・関連する巻:「身心脱落」「仏道」


4. 修行と悟りの一体化
道元の「修証一如(しゅしょういちにょ)」の教えは、修行(努力)と悟り(結果)が一体であるという考えを示します。現代的な解釈では、目標を達成することそのものだけでなく、その過程で得られる成長や学びをも重視することに通じます。

・具体的な目標:
 ・日々の修行の中で、悟りの片鱗を体験する。
 ・修行の過程で自己の成長を実感する。
・関連する巻:「修証一如」「只管打坐」


5. 社会や他者への貢献
『正法眼蔵』では個人的な悟りだけでなく、他者や社会に対する貢献も重要なテーマです。現代的な目標設定としては、「他者と共に成長する」「社会の中で仏道を生かす」ことが挙げられます。

・具体的な目標:
 ・他者に優しさや配慮を持って接する。
 ・自分の行動が社会全体に良い影響を与えるように心がける。
・関連する巻:「菩提心」「行住坐臥」


6. 坐禅の継続と深化
『正法眼蔵』における坐禅(只管打坐)は、仏道修行の核心です。現代的な目標としては、「坐禅の実践を生活に取り入れること」や、「坐禅を通じて心身の調和を図ること」が挙げられます。

・具体的な目標:
 ・毎日一定時間、坐禅を行う習慣を持つ。
 ・坐禅を深め、心の平穏や集中力を養う。
・関連する巻:「只管打坐」「坐禅儀」


まとめ
『正法眼蔵』における「目標」は、悟りや仏性の実現、身心脱落といった究極的な境地に至ることが挙げられますが、現代的な具体性を伴う形では「日常生活の中で実践する」「坐禅を深める」など、日々の行動に結びつけて解釈することができます。道元の教えは、結果よりも過程を重視し、その中で成長し続ける姿勢を目標として捉えることを私たちに教えています。

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正法眼藏:空

道元禅師の『正法眼藏』における「空」の哲学

『正法眼藏』において、「空(くう)」は仏教の根本的な教えの一つであり、道元禅師がその深遠な思想を表現する中核的な概念です。「空」という言葉は、単なる「無」を意味するのではなく、すべての現象が本質的に相互依存しており、独立した実体が存在しないことを指します。

1. 空の意味
「空」はサンスクリット語の「シューニャタ(śūnyatā)」を翻訳したものであり、「空虚」や「何もない」という表面的な意味を超えています。その本質は以下の通りです:
・無常(むじょう):すべてのものは絶えず変化し、固定された実体を持たない。
・無我(むが):個々の存在が独立して存在するのではなく、他との関係性によって成り立っている。
・縁起(えんぎ):すべての現象は因果関係によって成立している。

道元禅師は、『正法眼藏』においてこれらの教えを統合し、「空」を悟りの実践的な基盤として捉えました。


2. 正法眼藏における具体的な展開
(1) 「空」への言及
『正法眼藏』の各巻において、道元禅師は「空」を直接的・間接的に説明しています。たとえば、以下のような教えがあります:
・「現成公案」:空とは単なる抽象的な理論ではなく、具体的な日常の中に現成する(実現される)もの。
・「山水經」:自然(山や水)は「空」の現れであり、固定的な存在ではなく、時間とともに流動するものとして捉えられる。

(2) 坐禅の実践
道元禅師は、坐禅こそが「空」を体得する最善の方法であると説きます。坐禅において、思考や感覚を超越し、全体の一部としての自己の「空性」に気づくことが重要とされます。


3. 「空」の倫理的・実践的意義
「空」の理解は、単なる哲学的な洞察にとどまらず、日常生活や修行に具体的な影響を与えます。
・自己中心性の放棄:自我の執着を手放し、他者と調和した生き方を目指す。
・慈悲の実践:すべての存在が相互に依存していることを悟れば、他者への慈悲が自然と生じます。
・無執着の態度:物事や状況に執着せず、柔軟な心を持つ。


4. 空と時間性
『正法眼藏』の特徴の一つに、時間に関する哲学があります。道元禅師は、現在の一瞬一瞬が完全であり、「空」としての真実が現れる場であると説きます。彼の「有時(うじ)」の教えは、「存在」と「時間」が分かちがたく結びついていることを示します。


5. 現代への示唆
道元禅師の「空」の教えは、現代においても以下のような形で私たちに示唆を与えます:
・環境倫理:自然界の一部としての人間の在り方を見直す。
・心の安定:物事への過剰な執着から解放されることで、精神的な平穏を得る。
・人間関係の改善:自己と他者の境界が本質的に流動的であることを理解することで、調和を促す。


結論
『正法眼藏』における「空」は、道元禅師の思想の核であり、仏教哲学の深遠な実践的指針です。これを理解し実践することは、日常生活における心の自由と調和をもたらします。そして、それは時代や文化を超えた普遍的な知恵として現代にも響くものです。
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