道元禅師の『正法眼蔵』が安っぽい、安物買いの銭失いという視点
座禅が抑圧ではないが、抑圧の道具にされ、只管打坐が搾取ではないが、搾取の道具にされる、肝心な心が育っていないと悪用され、本物の僧侶を育てる事の弊害になる事をもっと厳しく指摘すべきだった。
多様性の原点を抑えていない、大乗仏教の精神、「多くの人が救われるような考え方」を追求できていない
成長は遅ければ遅いほど良い、「人生は短く、無常である」が許しと和解を促す文化に欠ける、妥協や譲歩を促す文化に欠ける
正法眼蔵は個人主義的で、循環構造や分配の仕組みに関する哲学性が弱いため、長期的な安定性を維持できる土壌が弱い
できる、できない。気付く、気づかない。の二元論が不二法門から外れ、相手の心に寄り添わずに、自分の事は自分で律しろと突き放す同情心や共感力に欠ける文化を作った。もっと運動性と同一性に真理を見出す事を強調すべきだった。
生と死を区別せず、人生は長く、永遠である事を強調し、成長は遅ければ遅いほど良いとし、真の仏法の本質でさえ空であるとし、人生で急ぐべきごとなんて、無いとすべきだった
正法眼蔵の雰囲気が、言葉遣いが悪く、怒りっぽくて、正論を言えばよいとする雰囲気を作った
道元禅師の『正法眼蔵』の疑問点
質問したい事
①座禅や只管打坐の悪用について
②「人生は短く、無常である」という考えについて
③「仏道を習う事は、自己を習う事」について
①座禅や只管打坐の悪用について
座禅が抑圧ではないが、抑圧の道具にされ、只管打坐が搾取ではないが、搾取の道具にされる、肝心な心が育っていないと悪用され、本物の僧侶を育てる事の弊害になる事を道元はもっと厳しく指摘すべきだったと思うのです。
道元が目指した形式仏教の打破は、制度や政治との癒着から距離を取る事に繋がったが、逆に道元の理想主義的な只管打坐思想が、後世になると逆に「黙って坐れ」「考えるな」「反論するな」といった権力温存の道具にされうることは、『正法眼蔵』には明示的にはあまり指摘されていません。
道元のいう「仏道をならうというは、自己をならうなり」の“自己”の部分。
つまり:
* 問い続ける自己
* 生死に向き合う自己
* 他者の痛みを見つめる自己
これらが失われたままの坐禅・修行・戒律は、たとえ形が仏法でも、中身は暴力・服従・制度の維持装置になってしまいます。
「真の僧侶を育てるために必要な問い」として、もっと座禅や只管打坐と同じ関係や横の立ち位置として、正法眼蔵の別巻の四攝法(菩提薩埵四攝法)を取り上げるべきであったのではないか?心身一如なのだから、座禅や只管打坐が「身」なら、「心」である正法眼蔵の別巻の四攝法(菩提薩埵四攝法)をもっと取り上げるべきだったと思うのです。座禅や只管打坐の悪用と菩提薩埵四攝法の立ち位置について、もう少し詳しく意見を聞きたいです。
まとめ:質問したいポイント
➊座禅や只管打坐が、肝心な心が育っていないと悪用される事
➋只管打坐が、「黙って坐れ」「考えるな」「反論するな」といった権力温存の道具にされうること
➌坐禅と倫理の接点を再定義すべきだったこと(只管打坐+四攝法の統合など)
➍制度的・関係的実践における指針が不十分で、理念の形骸化を防ぐには不十分だった事
➎修行を制度化せず、常に流動的に自省する枠組みを持ち、同行二人の座禅にすべきだった事
➏只管打坐の中に倫理的・関係的主体性をどう育てるか?問い続けるべきと強調すべきだった事
➐座禅は利他行の部分であって、座禅だけでは利他行の完璧な仕上げはできない事
➑自分の思想体系の完璧な仕上げのために、思想体系のデメリットや誤解、危険性についもう少し触れるべきだった事
➒不可分の一体として具体的に修行体系や僧団教育にどう実装されるかについて、記述が薄い事
➓只管打坐が自己を透徹する「身」の実践なら、四攝法は他者と共にある「心」の実践:身心一如のはず
只管打坐と四攝法の扱いに差があり過ぎる事、本当は外側よりも内側を大事にし、悟りに近づくよりも同じ深さで居続ける志が大事
⓫「問う主体」が育たないまま只管打坐だけが実践され、空洞化した形式となり、逆に仏道の精神性を抹殺する道具になりかねない事
⓬自己と他者の境界を超えて、全存在と響き合う主体が、ただ周りとの関係を切り捨て、自己に没頭しているだけのエゴになりかねない事
⓭座禅や只管打坐が、多くの人を救う考え方(大乗仏教の精神)ともっとくっ付けたほうが良かったと思うのです。
⓮七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)の全ての悪をするな、全ての善を行え、心は清らかであれ と座禅について
②大乗仏教の精神と『正法眼蔵』の矛盾や論理の破たんについて
道元禅師の「人生は短く、無常である」という考えには、6つの疑問があります。
1つ目は、大乗仏教の様に、多くの人を救おうとする考え方には、「自利利他」と「慈悲」を基盤とした、広く衆生を救済する精神があるはずです。自己の悟りだけでなく、他者の悟りも助け、互いに生かしていくことを目指していくはずなのです。それなら、人生観も、それを達成しやす様に、生と死も分けずに、死んだ後も同じような人生があると考え、「人生は長く、永遠である」と弟子たちに説くべきだったのではないですか?道元は「人生は短く、無常である」という無常観を強調し、弟子たちに精進を促しましたが、これは個人修行の緊張感を高めるための表現です。道元の仏道観は「今、この瞬間を生き切る」ことに重きを置き、永遠を「未来」や「死後」に求めるよりも、「今、坐ること」に求めたわけです。一方、大乗仏教では菩薩が六道輪廻にとどまり衆生を済度するように、死後を含めた永続的な救済が想定されています。
矛盾点:道元は大乗仏教の僧であるにも関わらず、「人生は短い」と語ることで、大乗的な“広がり”や“永続性”を弱めているように見える。 再構成の可能性:無常の中に永遠を見出す「刹那永遠」=一瞬にすべてが宿るという発想で、この矛盾は一応説明されますが、弟子や現代人には非常に伝わりにくいと思います。現代では、「生死を超える連続性」や「他者に残る生の記憶」も、仏教的永遠性として再評価する必要があると思います。
2つ目は、テスト的知能では、人生の根本的な安らぎが得られないから、只管打坐や修証一等の様な教えを育んだはずなのに「人生を短くしたり、無常観を押し付けて」弟子たちに、切実な思いや圧迫感を与えるのは、逆にテスト的な知能を刺激する結果となり、最終的に高学歴が派閥を組んで、閉鎖的で、排他的な組織にしてしまうのを助長している様に思うのです。
「人生は短いから、急げ」と言われると、かえって焦燥感・競争・優越感を生む土壌になります。特に、只管打坐のような修行が「悟りに到達しないと意味がない」ものにされると、それは本末転倒です。
矛盾点:無常観が「落ち着いて坐る」「あるがままである」ことを妨げ、逆にテスト型思考(できる/できない、早い/遅い)を強める。乗り越える視点:教育においては、「急がなくてもよい」「成熟は人それぞれ」「失敗してもいい」という包摂的な態度と共に無常観を伝える必要があります。これは四攝法の「愛語・利行・同事」の実践に繋がるもので、道元が説いた内容に感情的柔軟性と共感的理解を補完すべきです。
3つ目は、「人生は短く、無常である」という考えでは多様性の原点となる本質を損なう可能性がある事。
多くの人がその教えを聞いた時に、人生は短いのだから、急いで頑張らないといけないと感じるでしょう。人生は短いのだから、効率や生産性を重んじて、自分を深く見つめたり、真の仏法と向き合う意欲が軽視されてしまうと思うのです。無常観が「多様性」や「深まり」を妨げる。
無常観を短絡的に受け取ると、「とにかく急げ」「意味を出せ」という効率主義的・成果主義的な価値観にすり替わります。これは本来の「無常」=変化し続けることの肯定とは逆です。 矛盾点:無常を強調することで、人はむしろ「焦って深まらない」ことになりうる。仏法としての補完:多様性を許容する「縁起」や「空」の思想とセットで語るべきです。無常=多様性の前提であるという立場を、現代語で再解釈すべきです。多様性の原点となる本質とは、常に弱い人を守り、弱い人に寄り添う中で、強い人に負けなかった時に生まれるべきもので、「人生は短く、無常である」という考えでは、自分自身を分類・区別・ジャンル分けせざる負えなくなり、自分自身の真の可能性に向き合える本物の僧侶が減るのではないですか?
4つ目は、できる、できない。気付く、気づかない。の二元論が不二法門から外れ、相手の心に寄り添わずに、自分の事は自分で律しろと突き放す同情心や共感力に欠ける文化を作ったと思うのです。もっと運動性と同一性に真理を見出す事を強調すべきだった。同事とは、優越感を捨てる修行なのに、道元禅師の「人生は短く、無常である」という考えは、人生の密度が高いか、低いか、優越感を煽り、同事を減らす事に繋がる事。二元論と同事の喪失を促す事は、人を傷つけ、悲しませる事に繋がると思うのです。道元がときに峻厳な言葉遣いで修行者に接したのは、ある種の宗教的“覚醒”を期待してのことですが、そのスタイルが後に排他性・エリート主義・感情の切断を助長したことは否定できません。真の意味での、人財育成とは、何をやるにしても、則天去私の様に私欲を捨て、運命に委ねる要素が必要だと思うし、気付く、気づかないの二元論よりもまず第一に「上を見るな、身の程を知れ」と教えるべきであって、道元は上を見させたり、自分の身の程をわきまえ、無理のない範囲で行動を促す事を強調した訳では無かったと思うのです。だからこそ、矛盾点として只管打坐が「自力でなんとかせよ」という押し付けになり、同事=共にあるという仏法の実践に背く可能性がある。 再構成案として、仏教における修行とは、「個の努力」ではなく「関係性の中での気づき」として位置づけ直すべきです。たとえば、「できる/できない」ではなく、「共にいる/支え合う」という対話的修行の視点が必要だと思うのです。
5つ目は、道元禅師の「人生は短く、無常である」という考えが、死んだ人も、誰かの心の中で、生き続け、誰かに影響を及ぼし続ける事を気遣っていなくて、逆に生と死を区別せず、人生は長く、永遠である事を強調して、成長は遅ければ遅いほど良いとし、真の仏法の本質でさえ空であるとし、人生で急ぐべきごとなんて、無いとすべきだった様な気がする。 「死後の影響」や「永遠性」への視点の欠如。これはとても本質的な指摘です。道元は「死後にどう影響を与えるか」には明確に触れていませんが、仏教の本来の枠組みでは死後も因果がつながっていく、つまり「誰かの心に生き続ける」という視点は大切なはずです。矛盾点:道元の一貫した「今、ただ坐れ」は、死後への配慮や因縁の持続性を切り落としてしまう。補完案「死者もまた坐っている」「教えは残されて坐り続ける」というふうに、道元の思想を時間軸に広げて捉え直す必要があります。道元の思想自体も歴史と伝統を背負って、一人一人に重い荷物を背負わせてこそ、完成すると思うのです。長く永遠に受け継がれていくスピリッツを否定しては、そもそも歴史と伝統との不可分の一体として、人財育成もできないし、それでは逆に人財を「固定したり、止めたり、固めたり」育成事態に無常感が宿らないと思のです。死んだ人が誰かの心の中で生きていないなら、死んでも影響を及ぼし続ける存在とは何か、心に全てが詰まっているのなら、心に影響を呼ぼし続ける事ができる死んだ人との対話は、どう説明するのか、より複雑性を高め、一言では言い表せないからこそ、安定する人間社会を目指すべきだと思うのです。人の能力を最大限に引き出す
6つ目は、大乗仏教の様に、多くの人を救おうとする考え方なら、多くの人の生活基盤である家庭や家族をもっと大事にするべきだと思うのです。
曹洞の門は水のごとし。水は岩を穿つ。音なき声にて、深きを伝える。
よって、目立たぬ者の中に、真の大将はおる。 ただし、名は世に出ぬ。曹洞宗は「外的成果では測れない力」を育てる伝統。
目立つカリスマではなく、支える柱としての人格が育つ傾向がある。
ゆえに、「表に出たか」で価値を測ることこそが、仏法を損なう眼である。
総括して、正法眼蔵の雰囲気が、言葉遣いが悪く、怒りっぽくて、正論を言えばよいとする雰囲気を弟子達に作らせた気がする。真に相手の幸せを願い、分かち合う事が、結果として自他共の悟り(調和)に近づくという、大乗仏教の精神や多くの人が救われる考え方から、ずれている様な気がしました。総括:『正法眼蔵』に感じられる“閉じた厳しさ”をどう乗り越えるか、道元の洞察は鋭く真実を突いていますが、完璧な仕上げや完成度の追求が行き届かなかったように感じるのです。それは、無知の知、知らない事を知っている、分かっていない事を分かっているなど、科学や論理だけではたどり着けないような、裏付けはないが、確かに結果をより良くする信心深さや信仰の厚さが足りなかったようん感じるのです。繰り返し、休まず相手に関心を持ち続ける事でしか、相手の好きな事、嫌いな事、やりたい事、やりたくない事、相手の全てを知ろうとする姿勢が無いと、相手が大事にされていないと思うではないかと思うのです。道元自身も、全てに真理があり、全てに悟りがあり、仏道以外にも悟りがある事を認めていますが、なら「人生は短く、無常である」や仏道の中でも只管打坐や座禅に重きを置きすぎたのは、仏道の横幅を自分から狭くしてしまったのではないのですか?『正法眼蔵』はしばしば語調が強く、理詰めで押し切るような文体で、現代人には「怒りっぽい」「厳しすぎる」と感じられることもあります。それは人生全体の対して、ある程度の責任と規律を求める姿勢よりも、部分的な人生しか見れないような無関心や無明を生む土壌になったと思うのです。人生全体に対して、ある程度の妥協と譲歩しながら、多くの人と許しと和解をしながら、無分別に、取り組むのがベストだと思うのです。道元禅師の『正法眼蔵』には誰にも譲れぬ真実への深い信念と誠実さがあります。しかし、問題はその厳しさを一方的な「正論」や「規律」として継承してしまうことだと思うのです。
今、私たちができること、やるべき事だと思う事
『正法眼蔵』を一方的な道徳書ではなく、対話の起点として読むこと
「無常」や「只管打坐」の思想を、他者との関係性や共感の中で再定義すること
四攝法や菩薩道の実践を中核に据えて、仏教を開かれた修行にすること
③「仏道を習う事は、自己を習う事」がすごく引っ掛かる事。「仏道を習う事は、相手を習う事」の方がしッくり来る
仏道の第一歩は、何かと繋がって、一体感を生む事であり、何かとを分断して、孤立化する事ではないと思うのです。だとするのなら、「仏道を習う事は、自己を習う事」は、「仏道を習う事は、相手を習う事」よりも分かりづらく、伝わりづらいと思うです。
まずちゃんと相手を見て判断する、自分勝手な事をするとレベルが下がる:スポーツや経営ではよくある事
高僧が雲水を機械や、資源や物や駒や道具や実験台の様に扱っているように見えて、人間としての「心」が見えないのが不愉快
仏道が“自己中心の内面修行”に偏ってしまうと、 関係性・共感・ケアの感性が失われる
相手中心主義が極めたり、逆の立場に立って、最高峰を目指さないと、考え抜かないと、本当に良い仏道ではない
本来の仏道は、 他者との共鳴・他者への配慮・相手を大切にする視点から始まるべきでは?
外側だけ、上辺だけ、表面だけで、肝心な心が育たない土壌を作ってしまったのではないか?
相手を見ずに、自己の「向上」や「悟り」ばかりを追いかけると、それはエゴの温床になりうる
やりたい事をやれ、好きな事をやれ、それをみんなは求めている。勝ちに行くな、結果を出そうとするな、ポイント稼ぎをするな
心しか見えない物を見たい。技術を見せるな、戦術を見せるな、心しか見えないレベルまで行け。そこまで言ったら面白い。
仏道の最初が、「自己を習う事」分断と孤立化から始めるのが違和感がある。仏道の第一歩は繋がりと一体感から始めるべきだと思う
南直哉さんは、自己の事を相手がいないと存在しない縁起で応じるもの、なら仏道の最初は、相手を習う事なのでは
全ては関係の中で生まれるから、仏性にも変化できる。ならまず自分よりも関係性を深く習うべきだと思う。
自己を忘れることで、他者(万法)と一体になるのではなく、相手の心を見る事で、他者(万法)と一体になるのでは
仏道を習う事は、自己を習う事で、どっちの方が自己を習えているか?競争意識や闘争心、優越感を刺激する事になる事
仏道を習う事は、相手を習う事で、相手がどんな人間か?協力的で、仲良く、利他的な人間であると思う
自己を忘れることで、他者(万法)と一体になるのではなく、相手の心を見る事で、他者(万法)と一体になるのでは
さりげない質問
スポーツの最高峰は巨人の川上監督、経営の最高峰は京セラの稲森和夫は両方臨済宗、曹洞宗からすごいスポーツ選手やすごい経営者が出てこないと仮定したら、理由はなぜだと思いますか?
仏法の真実性・純粋性を保つ事や「正しく仏法を実践することが、最も深い救済である」という確信は、すごいスポーツ選手やすごい経営者を生む土壌になると思うのです。曹洞禅のその意識が、相手に伝わり切らない、分かりにくいのは、なぜだと思いますか?
①座禅や只管打坐の悪用について
②「人生は短く、無常である」という考えについて
③「仏道を習う事は、自己を習う事」について
①座禅や只管打坐の悪用について
座禅が抑圧ではないが、抑圧の道具にされ、只管打坐が搾取ではないが、搾取の道具にされる、肝心な心が育っていないと悪用され、本物の僧侶を育てる事の弊害になる事を道元はもっと厳しく指摘すべきだったと思うのです。
道元が目指した形式仏教の打破は、制度や政治との癒着から距離を取る事に繋がったが、逆に道元の理想主義的な只管打坐思想が、後世になると逆に「黙って坐れ」「考えるな」「反論するな」といった権力温存の道具にされうることは、『正法眼蔵』には明示的にはあまり指摘されていません。
道元のいう「仏道をならうというは、自己をならうなり」の“自己”の部分。
つまり:
* 問い続ける自己
* 生死に向き合う自己
* 他者の痛みを見つめる自己
これらが失われたままの坐禅・修行・戒律は、たとえ形が仏法でも、中身は暴力・服従・制度の維持装置になってしまいます。
「真の僧侶を育てるために必要な問い」として、もっと座禅や只管打坐と同じ関係や横の立ち位置として、正法眼蔵の別巻の四攝法(菩提薩埵四攝法)を取り上げるべきであったのではないか?心身一如なのだから、座禅や只管打坐が「身」なら、「心」である正法眼蔵の別巻の四攝法(菩提薩埵四攝法)をもっと取り上げるべきだったと思うのです。座禅や只管打坐の悪用と菩提薩埵四攝法の立ち位置について、もう少し詳しく意見を聞きたいです。
まとめ:質問したいポイント
➊座禅や只管打坐が、肝心な心が育っていないと悪用される事
➋只管打坐が、「黙って坐れ」「考えるな」「反論するな」といった権力温存の道具にされうること
➌坐禅と倫理の接点を再定義すべきだったこと(只管打坐+四攝法の統合など)
➍制度的・関係的実践における指針が不十分で、理念の形骸化を防ぐには不十分だった事
➎修行を制度化せず、常に流動的に自省する枠組みを持ち、同行二人の座禅にすべきだった事
➏只管打坐の中に倫理的・関係的主体性をどう育てるか?問い続けるべきと強調すべきだった事
➐座禅は利他行の部分であって、座禅だけでは利他行の完璧な仕上げはできない事
➑自分の思想体系の完璧な仕上げのために、思想体系のデメリットや誤解、危険性についもう少し触れるべきだった事
➒不可分の一体として具体的に修行体系や僧団教育にどう実装されるかについて、記述が薄い事
➓只管打坐が自己を透徹する「身」の実践なら、四攝法は他者と共にある「心」の実践:身心一如のはず
只管打坐と四攝法の扱いに差があり過ぎる事、本当は外側よりも内側を大事にし、悟りに近づくよりも同じ深さで居続ける志が大事
⓫「問う主体」が育たないまま只管打坐だけが実践され、空洞化した形式となり、逆に仏道の精神性を抹殺する道具になりかねない事
⓬自己と他者の境界を超えて、全存在と響き合う主体が、ただ周りとの関係を切り捨て、自己に没頭しているだけのエゴになりかねない事
⓭座禅や只管打坐が、多くの人を救う考え方(大乗仏教の精神)ともっとくっ付けたほうが良かったと思うのです。
⓮七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)の全ての悪をするな、全ての善を行え、心は清らかであれ と座禅について
②大乗仏教の精神と『正法眼蔵』の矛盾や論理の破たんについて
道元禅師の「人生は短く、無常である」という考えには、6つの疑問があります。
1つ目は、大乗仏教の様に、多くの人を救おうとする考え方には、「自利利他」と「慈悲」を基盤とした、広く衆生を救済する精神があるはずです。自己の悟りだけでなく、他者の悟りも助け、互いに生かしていくことを目指していくはずなのです。それなら、人生観も、それを達成しやす様に、生と死も分けずに、死んだ後も同じような人生があると考え、「人生は長く、永遠である」と弟子たちに説くべきだったのではないですか?道元は「人生は短く、無常である」という無常観を強調し、弟子たちに精進を促しましたが、これは個人修行の緊張感を高めるための表現です。道元の仏道観は「今、この瞬間を生き切る」ことに重きを置き、永遠を「未来」や「死後」に求めるよりも、「今、坐ること」に求めたわけです。一方、大乗仏教では菩薩が六道輪廻にとどまり衆生を済度するように、死後を含めた永続的な救済が想定されています。
矛盾点:道元は大乗仏教の僧であるにも関わらず、「人生は短い」と語ることで、大乗的な“広がり”や“永続性”を弱めているように見える。 再構成の可能性:無常の中に永遠を見出す「刹那永遠」=一瞬にすべてが宿るという発想で、この矛盾は一応説明されますが、弟子や現代人には非常に伝わりにくいと思います。現代では、「生死を超える連続性」や「他者に残る生の記憶」も、仏教的永遠性として再評価する必要があると思います。
2つ目は、テスト的知能では、人生の根本的な安らぎが得られないから、只管打坐や修証一等の様な教えを育んだはずなのに「人生を短くしたり、無常観を押し付けて」弟子たちに、切実な思いや圧迫感を与えるのは、逆にテスト的な知能を刺激する結果となり、最終的に高学歴が派閥を組んで、閉鎖的で、排他的な組織にしてしまうのを助長している様に思うのです。
「人生は短いから、急げ」と言われると、かえって焦燥感・競争・優越感を生む土壌になります。特に、只管打坐のような修行が「悟りに到達しないと意味がない」ものにされると、それは本末転倒です。
矛盾点:無常観が「落ち着いて坐る」「あるがままである」ことを妨げ、逆にテスト型思考(できる/できない、早い/遅い)を強める。乗り越える視点:教育においては、「急がなくてもよい」「成熟は人それぞれ」「失敗してもいい」という包摂的な態度と共に無常観を伝える必要があります。これは四攝法の「愛語・利行・同事」の実践に繋がるもので、道元が説いた内容に感情的柔軟性と共感的理解を補完すべきです。
3つ目は、「人生は短く、無常である」という考えでは多様性の原点となる本質を損なう可能性がある事。
多くの人がその教えを聞いた時に、人生は短いのだから、急いで頑張らないといけないと感じるでしょう。人生は短いのだから、効率や生産性を重んじて、自分を深く見つめたり、真の仏法と向き合う意欲が軽視されてしまうと思うのです。無常観が「多様性」や「深まり」を妨げる。
無常観を短絡的に受け取ると、「とにかく急げ」「意味を出せ」という効率主義的・成果主義的な価値観にすり替わります。これは本来の「無常」=変化し続けることの肯定とは逆です。 矛盾点:無常を強調することで、人はむしろ「焦って深まらない」ことになりうる。仏法としての補完:多様性を許容する「縁起」や「空」の思想とセットで語るべきです。無常=多様性の前提であるという立場を、現代語で再解釈すべきです。多様性の原点となる本質とは、常に弱い人を守り、弱い人に寄り添う中で、強い人に負けなかった時に生まれるべきもので、「人生は短く、無常である」という考えでは、自分自身を分類・区別・ジャンル分けせざる負えなくなり、自分自身の真の可能性に向き合える本物の僧侶が減るのではないですか?
4つ目は、できる、できない。気付く、気づかない。の二元論が不二法門から外れ、相手の心に寄り添わずに、自分の事は自分で律しろと突き放す同情心や共感力に欠ける文化を作ったと思うのです。もっと運動性と同一性に真理を見出す事を強調すべきだった。同事とは、優越感を捨てる修行なのに、道元禅師の「人生は短く、無常である」という考えは、人生の密度が高いか、低いか、優越感を煽り、同事を減らす事に繋がる事。二元論と同事の喪失を促す事は、人を傷つけ、悲しませる事に繋がると思うのです。道元がときに峻厳な言葉遣いで修行者に接したのは、ある種の宗教的“覚醒”を期待してのことですが、そのスタイルが後に排他性・エリート主義・感情の切断を助長したことは否定できません。真の意味での、人財育成とは、何をやるにしても、則天去私の様に私欲を捨て、運命に委ねる要素が必要だと思うし、気付く、気づかないの二元論よりもまず第一に「上を見るな、身の程を知れ」と教えるべきであって、道元は上を見させたり、自分の身の程をわきまえ、無理のない範囲で行動を促す事を強調した訳では無かったと思うのです。だからこそ、矛盾点として只管打坐が「自力でなんとかせよ」という押し付けになり、同事=共にあるという仏法の実践に背く可能性がある。 再構成案として、仏教における修行とは、「個の努力」ではなく「関係性の中での気づき」として位置づけ直すべきです。たとえば、「できる/できない」ではなく、「共にいる/支え合う」という対話的修行の視点が必要だと思うのです。
5つ目は、道元禅師の「人生は短く、無常である」という考えが、死んだ人も、誰かの心の中で、生き続け、誰かに影響を及ぼし続ける事を気遣っていなくて、逆に生と死を区別せず、人生は長く、永遠である事を強調して、成長は遅ければ遅いほど良いとし、真の仏法の本質でさえ空であるとし、人生で急ぐべきごとなんて、無いとすべきだった様な気がする。 「死後の影響」や「永遠性」への視点の欠如。これはとても本質的な指摘です。道元は「死後にどう影響を与えるか」には明確に触れていませんが、仏教の本来の枠組みでは死後も因果がつながっていく、つまり「誰かの心に生き続ける」という視点は大切なはずです。矛盾点:道元の一貫した「今、ただ坐れ」は、死後への配慮や因縁の持続性を切り落としてしまう。補完案「死者もまた坐っている」「教えは残されて坐り続ける」というふうに、道元の思想を時間軸に広げて捉え直す必要があります。道元の思想自体も歴史と伝統を背負って、一人一人に重い荷物を背負わせてこそ、完成すると思うのです。長く永遠に受け継がれていくスピリッツを否定しては、そもそも歴史と伝統との不可分の一体として、人財育成もできないし、それでは逆に人財を「固定したり、止めたり、固めたり」育成事態に無常感が宿らないと思のです。死んだ人が誰かの心の中で生きていないなら、死んでも影響を及ぼし続ける存在とは何か、心に全てが詰まっているのなら、心に影響を呼ぼし続ける事ができる死んだ人との対話は、どう説明するのか、より複雑性を高め、一言では言い表せないからこそ、安定する人間社会を目指すべきだと思うのです。人の能力を最大限に引き出す
6つ目は、大乗仏教の様に、多くの人を救おうとする考え方なら、多くの人の生活基盤である家庭や家族をもっと大事にするべきだと思うのです。
曹洞の門は水のごとし。水は岩を穿つ。音なき声にて、深きを伝える。
よって、目立たぬ者の中に、真の大将はおる。 ただし、名は世に出ぬ。曹洞宗は「外的成果では測れない力」を育てる伝統。
目立つカリスマではなく、支える柱としての人格が育つ傾向がある。
ゆえに、「表に出たか」で価値を測ることこそが、仏法を損なう眼である。
総括して、正法眼蔵の雰囲気が、言葉遣いが悪く、怒りっぽくて、正論を言えばよいとする雰囲気を弟子達に作らせた気がする。真に相手の幸せを願い、分かち合う事が、結果として自他共の悟り(調和)に近づくという、大乗仏教の精神や多くの人が救われる考え方から、ずれている様な気がしました。総括:『正法眼蔵』に感じられる“閉じた厳しさ”をどう乗り越えるか、道元の洞察は鋭く真実を突いていますが、完璧な仕上げや完成度の追求が行き届かなかったように感じるのです。それは、無知の知、知らない事を知っている、分かっていない事を分かっているなど、科学や論理だけではたどり着けないような、裏付けはないが、確かに結果をより良くする信心深さや信仰の厚さが足りなかったようん感じるのです。繰り返し、休まず相手に関心を持ち続ける事でしか、相手の好きな事、嫌いな事、やりたい事、やりたくない事、相手の全てを知ろうとする姿勢が無いと、相手が大事にされていないと思うではないかと思うのです。道元自身も、全てに真理があり、全てに悟りがあり、仏道以外にも悟りがある事を認めていますが、なら「人生は短く、無常である」や仏道の中でも只管打坐や座禅に重きを置きすぎたのは、仏道の横幅を自分から狭くしてしまったのではないのですか?『正法眼蔵』はしばしば語調が強く、理詰めで押し切るような文体で、現代人には「怒りっぽい」「厳しすぎる」と感じられることもあります。それは人生全体の対して、ある程度の責任と規律を求める姿勢よりも、部分的な人生しか見れないような無関心や無明を生む土壌になったと思うのです。人生全体に対して、ある程度の妥協と譲歩しながら、多くの人と許しと和解をしながら、無分別に、取り組むのがベストだと思うのです。道元禅師の『正法眼蔵』には誰にも譲れぬ真実への深い信念と誠実さがあります。しかし、問題はその厳しさを一方的な「正論」や「規律」として継承してしまうことだと思うのです。
今、私たちができること、やるべき事だと思う事
『正法眼蔵』を一方的な道徳書ではなく、対話の起点として読むこと
「無常」や「只管打坐」の思想を、他者との関係性や共感の中で再定義すること
四攝法や菩薩道の実践を中核に据えて、仏教を開かれた修行にすること
③「仏道を習う事は、自己を習う事」がすごく引っ掛かる事。「仏道を習う事は、相手を習う事」の方がしッくり来る
仏道の第一歩は、何かと繋がって、一体感を生む事であり、何かとを分断して、孤立化する事ではないと思うのです。だとするのなら、「仏道を習う事は、自己を習う事」は、「仏道を習う事は、相手を習う事」よりも分かりづらく、伝わりづらいと思うです。
まずちゃんと相手を見て判断する、自分勝手な事をするとレベルが下がる:スポーツや経営ではよくある事
高僧が雲水を機械や、資源や物や駒や道具や実験台の様に扱っているように見えて、人間としての「心」が見えないのが不愉快
仏道が“自己中心の内面修行”に偏ってしまうと、 関係性・共感・ケアの感性が失われる
相手中心主義が極めたり、逆の立場に立って、最高峰を目指さないと、考え抜かないと、本当に良い仏道ではない
本来の仏道は、 他者との共鳴・他者への配慮・相手を大切にする視点から始まるべきでは?
外側だけ、上辺だけ、表面だけで、肝心な心が育たない土壌を作ってしまったのではないか?
相手を見ずに、自己の「向上」や「悟り」ばかりを追いかけると、それはエゴの温床になりうる
やりたい事をやれ、好きな事をやれ、それをみんなは求めている。勝ちに行くな、結果を出そうとするな、ポイント稼ぎをするな
心しか見えない物を見たい。技術を見せるな、戦術を見せるな、心しか見えないレベルまで行け。そこまで言ったら面白い。
仏道の最初が、「自己を習う事」分断と孤立化から始めるのが違和感がある。仏道の第一歩は繋がりと一体感から始めるべきだと思う
南直哉さんは、自己の事を相手がいないと存在しない縁起で応じるもの、なら仏道の最初は、相手を習う事なのでは
全ては関係の中で生まれるから、仏性にも変化できる。ならまず自分よりも関係性を深く習うべきだと思う。
自己を忘れることで、他者(万法)と一体になるのではなく、相手の心を見る事で、他者(万法)と一体になるのでは
仏道を習う事は、自己を習う事で、どっちの方が自己を習えているか?競争意識や闘争心、優越感を刺激する事になる事
仏道を習う事は、相手を習う事で、相手がどんな人間か?協力的で、仲良く、利他的な人間であると思う
自己を忘れることで、他者(万法)と一体になるのではなく、相手の心を見る事で、他者(万法)と一体になるのでは
さりげない質問
スポーツの最高峰は巨人の川上監督、経営の最高峰は京セラの稲森和夫は両方臨済宗、曹洞宗からすごいスポーツ選手やすごい経営者が出てこないと仮定したら、理由はなぜだと思いますか?
仏法の真実性・純粋性を保つ事や「正しく仏法を実践することが、最も深い救済である」という確信は、すごいスポーツ選手やすごい経営者を生む土壌になると思うのです。曹洞禅のその意識が、相手に伝わり切らない、分かりにくいのは、なぜだと思いますか?
「仏道を習う事は、自己を習う事」がすごく引っ掛かっかるのです。
「仏道を習う事は、相手を習う事」の方がしッくり来るのです。
仏道の第一歩は、何かと繋がって、一体感を生む事であり、何かとを分断して、孤立化する事ではないと思うのです。
だとするのなら、「仏道を習う事は、自己を習う事」は、「仏道を習う事は、相手を習う事」よりも分かりづらく、伝わりづらいと思うです。
第一に、仏道が“自己中心の内面修行”に偏ってしまうと、 関係性・共感・ケアの感性が失われるし、本来の仏道は、 他者との共鳴・他者への配慮・相手を大切にする視点から始まるべきでは?と思うのです。相手中心主義が極めたり、逆の立場に立って、最高峰を目指さないと、考え抜かないと、本当に良い仏道ではないと思うのです。仏道の第一歩を、自己を習う事にする事で、外側だけ、上辺だけ、表面だけで、肝心な心が育たない土壌を作ってしまったのではないか?と思うのです。相手を見ずに、自己の「向上」や「悟り」ばかりを追いかけると、それはエゴの温床になりうるし、人財育成の質が下がると思うのです。
「仏道を習う事は、自己を習う事」にする事で、どっちの方が自己を習えているか?競争意識や闘争心、優越感を刺激する事になり、それは仏道ではないと思うのです。
仏道を習う事は、相手を習う事の方が、相手がどんな人間か?協力的で、仲良く、利他的な人間であると思う。
七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)の全ての悪をするな、全ての善を行え、心は清らかであれ。ならまず、知る事、認知が第一歩であり、自分以外を見る開かれた心、受け入れる心などの開放的で、受容的な心が大事だと思うのです。自分勝手に成長を定義して良いのなら、理念の形骸化を防ぐには不十分だと思うのです。
「仏道を習う事は、自己を習う事」の自己は客観的な自己、つまり相手の様なものであるし、そもそも自分自身の本質は認識できない、周りを見て、色々な情報から、自分自身を深く見つめるべきだと思うのです。自己に着眼点を置くこと自体が、仏道を一方的で、空洞化した形式とし、逆に仏道の精神性を抹殺する道具になりかねないと思ったのです。
人類にとって、一番重要なテーマは、「許しと和解」なら、相手をもっと深く見つめるべきだと思うのです。逆に人類にとって、一番不要で、余計なものは「思考力と時間」だと思うのです。「思考力と時間」は、人の心に共感したり、同情するような、人の温かい心の不純物であるし、私利私欲を刺激し、全体を悪くするものだと思うのです。「思考力と時間」とは只管打坐の何も求めず、何も得ようとせず、ただ座るという哲学的な原則から離れているし、だとするならば、それは、仏道を習う事の第一歩を、自己を習う事にして、「思考力と時間」を刺激して、逆に人類にとって、一番重要なテーマは、「許しと和解」の妨げになっていると思うのです。
人間の心とは、もっと繋がる事や思いやる事に重きを置くべきだと思うのです。
「仏道を習う事は、相手を習う事」の方がしッくり来るのです。
仏道の第一歩は、何かと繋がって、一体感を生む事であり、何かとを分断して、孤立化する事ではないと思うのです。
だとするのなら、「仏道を習う事は、自己を習う事」は、「仏道を習う事は、相手を習う事」よりも分かりづらく、伝わりづらいと思うです。
第一に、仏道が“自己中心の内面修行”に偏ってしまうと、 関係性・共感・ケアの感性が失われるし、本来の仏道は、 他者との共鳴・他者への配慮・相手を大切にする視点から始まるべきでは?と思うのです。相手中心主義が極めたり、逆の立場に立って、最高峰を目指さないと、考え抜かないと、本当に良い仏道ではないと思うのです。仏道の第一歩を、自己を習う事にする事で、外側だけ、上辺だけ、表面だけで、肝心な心が育たない土壌を作ってしまったのではないか?と思うのです。相手を見ずに、自己の「向上」や「悟り」ばかりを追いかけると、それはエゴの温床になりうるし、人財育成の質が下がると思うのです。
「仏道を習う事は、自己を習う事」にする事で、どっちの方が自己を習えているか?競争意識や闘争心、優越感を刺激する事になり、それは仏道ではないと思うのです。
仏道を習う事は、相手を習う事の方が、相手がどんな人間か?協力的で、仲良く、利他的な人間であると思う。
七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)の全ての悪をするな、全ての善を行え、心は清らかであれ。ならまず、知る事、認知が第一歩であり、自分以外を見る開かれた心、受け入れる心などの開放的で、受容的な心が大事だと思うのです。自分勝手に成長を定義して良いのなら、理念の形骸化を防ぐには不十分だと思うのです。
「仏道を習う事は、自己を習う事」の自己は客観的な自己、つまり相手の様なものであるし、そもそも自分自身の本質は認識できない、周りを見て、色々な情報から、自分自身を深く見つめるべきだと思うのです。自己に着眼点を置くこと自体が、仏道を一方的で、空洞化した形式とし、逆に仏道の精神性を抹殺する道具になりかねないと思ったのです。
人類にとって、一番重要なテーマは、「許しと和解」なら、相手をもっと深く見つめるべきだと思うのです。逆に人類にとって、一番不要で、余計なものは「思考力と時間」だと思うのです。「思考力と時間」は、人の心に共感したり、同情するような、人の温かい心の不純物であるし、私利私欲を刺激し、全体を悪くするものだと思うのです。「思考力と時間」とは只管打坐の何も求めず、何も得ようとせず、ただ座るという哲学的な原則から離れているし、だとするならば、それは、仏道を習う事の第一歩を、自己を習う事にして、「思考力と時間」を刺激して、逆に人類にとって、一番重要なテーマは、「許しと和解」の妨げになっていると思うのです。
人間の心とは、もっと繋がる事や思いやる事に重きを置くべきだと思うのです。
座禅や只管打坐の悪用について
座禅が抑圧ではないが、抑圧の道具にされ、只管打坐が搾取ではないが、搾取の道具にされる、肝心な心が育っていないと悪用され、本物の僧侶を育てる事の弊害になる事を道元はもっと厳しく指摘すべきだったと思うのです。
道元が目指した形式仏教の打破は、制度や政治との癒着から距離を取る事に繋がったが、逆に道元の理想主義的な只管打坐思想が、後世になると逆に「黙って坐れ」「考えるな」「反論するな」といった権力温存の道具にされうることは、『正法眼蔵』には明示的にはあまり指摘されていません。
道元のいう「仏道をならうというは、自己をならうなり」の“自己”の部分。
つまり:
* 問い続ける自己
* 生死に向き合う自己
* 他者の痛みを見つめる自己
これらが失われたままの坐禅・修行・戒律は、たとえ形が仏法でも、中身は暴力・服従・制度の維持装置になってしまいます。
「真の僧侶を育てるために必要な問い」として、もっと座禅や只管打坐と同じ関係や横の立ち位置として、正法眼蔵の別巻の四攝法(菩提薩埵四攝法)を取り上げるべきであったのではないか?心身一如なのだから、座禅や只管打坐が「身」なら、「心」である正法眼蔵の別巻の四攝法(菩提薩埵四攝法)をもっと取り上げるべきだったと思うのです。座禅や只管打坐の悪用と菩提薩埵四攝法の立ち位置について、もう少し詳しく意見を聞きたいです。
まとめ:質問したいポイント
➊座禅や只管打坐が、肝心な心が育っていないと悪用される事
➋只管打坐が、「黙って坐れ」「考えるな」「反論するな」といった権力温存の道具にされうること
➌坐禅と倫理の接点を再定義すべきだったこと(只管打坐+四攝法の統合など)
➍制度的・関係的実践における指針が不十分で、理念の形骸化を防ぐには不十分だった事
➎修行を制度化せず、常に流動的に自省する枠組みを持ち、同行二人の座禅にすべきだった事
➏只管打坐の中に倫理的・関係的主体性をどう育てるか?問い続けるべきと強調すべきだった事
➐座禅は利他行の部分であって、座禅だけでは利他行の完璧な仕上げはできない事
➑自分の思想体系の完璧な仕上げのために、思想体系のデメリットや誤解、危険性についもう少し触れるべきだった事
➒不可分の一体として具体的に修行体系や僧団教育にどう実装されるかについて、記述が薄い事
➓只管打坐が自己を透徹する「身」の実践なら、四攝法は他者と共にある「心」の実践:身心一如のはず
只管打坐と四攝法の扱いに差があり過ぎる事、本当は外側よりも内側を大事にし、悟りに近づくよりも同じ深さで居続ける志が大事
⓫「問う主体」が育たないまま只管打坐だけが実践され、空洞化した形式となり、逆に仏道の精神性を抹殺する道具になりかねない事
⓬自己と他者の境界を超えて、全存在と響き合う主体が、ただ周りとの関係を切り捨て、自己に没頭しているだけのエゴになりかねない事
⓭座禅や只管打坐が、多くの人を救う考え方(大乗仏教の精神)ともっとくっ付けたほうが良かったと思うのです。
⓮七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)の全ての悪をするな、全ての善を行え、心は清らかであれ と座禅について
座禅が抑圧ではないが、抑圧の道具にされ、只管打坐が搾取ではないが、搾取の道具にされる、肝心な心が育っていないと悪用され、本物の僧侶を育てる事の弊害になる事を道元はもっと厳しく指摘すべきだったと思うのです。
道元が目指した形式仏教の打破は、制度や政治との癒着から距離を取る事に繋がったが、逆に道元の理想主義的な只管打坐思想が、後世になると逆に「黙って坐れ」「考えるな」「反論するな」といった権力温存の道具にされうることは、『正法眼蔵』には明示的にはあまり指摘されていません。
道元のいう「仏道をならうというは、自己をならうなり」の“自己”の部分。
つまり:
* 問い続ける自己
* 生死に向き合う自己
* 他者の痛みを見つめる自己
これらが失われたままの坐禅・修行・戒律は、たとえ形が仏法でも、中身は暴力・服従・制度の維持装置になってしまいます。
「真の僧侶を育てるために必要な問い」として、もっと座禅や只管打坐と同じ関係や横の立ち位置として、正法眼蔵の別巻の四攝法(菩提薩埵四攝法)を取り上げるべきであったのではないか?心身一如なのだから、座禅や只管打坐が「身」なら、「心」である正法眼蔵の別巻の四攝法(菩提薩埵四攝法)をもっと取り上げるべきだったと思うのです。座禅や只管打坐の悪用と菩提薩埵四攝法の立ち位置について、もう少し詳しく意見を聞きたいです。
まとめ:質問したいポイント
➊座禅や只管打坐が、肝心な心が育っていないと悪用される事
➋只管打坐が、「黙って坐れ」「考えるな」「反論するな」といった権力温存の道具にされうること
➌坐禅と倫理の接点を再定義すべきだったこと(只管打坐+四攝法の統合など)
➍制度的・関係的実践における指針が不十分で、理念の形骸化を防ぐには不十分だった事
➎修行を制度化せず、常に流動的に自省する枠組みを持ち、同行二人の座禅にすべきだった事
➏只管打坐の中に倫理的・関係的主体性をどう育てるか?問い続けるべきと強調すべきだった事
➐座禅は利他行の部分であって、座禅だけでは利他行の完璧な仕上げはできない事
➑自分の思想体系の完璧な仕上げのために、思想体系のデメリットや誤解、危険性についもう少し触れるべきだった事
➒不可分の一体として具体的に修行体系や僧団教育にどう実装されるかについて、記述が薄い事
➓只管打坐が自己を透徹する「身」の実践なら、四攝法は他者と共にある「心」の実践:身心一如のはず
只管打坐と四攝法の扱いに差があり過ぎる事、本当は外側よりも内側を大事にし、悟りに近づくよりも同じ深さで居続ける志が大事
⓫「問う主体」が育たないまま只管打坐だけが実践され、空洞化した形式となり、逆に仏道の精神性を抹殺する道具になりかねない事
⓬自己と他者の境界を超えて、全存在と響き合う主体が、ただ周りとの関係を切り捨て、自己に没頭しているだけのエゴになりかねない事
⓭座禅や只管打坐が、多くの人を救う考え方(大乗仏教の精神)ともっとくっ付けたほうが良かったと思うのです。
⓮七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)の全ての悪をするな、全ての善を行え、心は清らかであれ と座禅について
「絆」や「繋がり」といった言葉は仏教ではもともと「束縛」として解釈され、悪い意味で使われることが多いようです。ですので、仏教の実践はそういった絆的な関係性から一歩引くことからスタートすると思います。
その後であれば、おっしゃる通り「自己をならふといふは自己をわするるなり…」というように、自分を他者に開いておいて、万法との関係性の中に溶け込むことも大切です。
しかし自己という絶対的な寄る辺を確保しないで、最初から絆、繋がり、関係性ばかり強調しても、息苦しいのではないでしょうか?
返信ありがとうございます。長文失礼します。
座禅の本質は、少欲知足の精神や「不自由を常と思えば不足無し」の様に、束縛の中で、心を乱さない事にあり、それが世界中で座禅やマインドフルネスが広まった理由になると思うのです。だから仏教の実践や仏道の第一歩は、絆的な関係性をより強くする様な相手と繋がり、一体感を強める事から、始めるべきだと思うのです。「仏道を習う事は、自己を習う事」の説明を色々な人から聞いていると、結局それなら「仏道を習う事は、相手を習う事」の方がより本質に近く、分かりやすく、伝わりやすい気がするのです。自他一如や自未得度先度他(じみとくどせんどた)の様に自分と他人の区別もなく、ごく自然に他人の幸せを願えるようになれば、それはもう悟りなのだと思うのです。傷つくのは、やはり、自分というものに執着があるからなのだと思うし、自分と他人の区別がつかなくなり、みんなの幸せを願えるようになれば、本人も周囲の人も、それは浄土に住むような幸せということではないだろうかと思うのです。そのような人が、一人二人と増えていかなければならないと思うのです。自己という絶対的な寄る辺を確保しないで、と言われても、自他一如や自未得度先度他の概念からずれているし、人間の確かな優しさに触れたような心温まる思いが人類から減ってしまうと思うのです。最初から絆、繋がり、関係性ばかり強調して、それを息苦しいどころから、人生で嬉しい事楽しい事の様に感じるために、只管打坐したいのです。相手にとって、本当に優しい存在、相手にとって本当に大事な存在にならないと、相手の能力を最大限に引き出せないと思うのです。これは僕がどうあって欲しいかの問題のなのですが、ネルケ和尚はどう思いますか?
その後であれば、おっしゃる通り「自己をならふといふは自己をわするるなり…」というように、自分を他者に開いておいて、万法との関係性の中に溶け込むことも大切です。
しかし自己という絶対的な寄る辺を確保しないで、最初から絆、繋がり、関係性ばかり強調しても、息苦しいのではないでしょうか?
返信ありがとうございます。長文失礼します。
座禅の本質は、少欲知足の精神や「不自由を常と思えば不足無し」の様に、束縛の中で、心を乱さない事にあり、それが世界中で座禅やマインドフルネスが広まった理由になると思うのです。だから仏教の実践や仏道の第一歩は、絆的な関係性をより強くする様な相手と繋がり、一体感を強める事から、始めるべきだと思うのです。「仏道を習う事は、自己を習う事」の説明を色々な人から聞いていると、結局それなら「仏道を習う事は、相手を習う事」の方がより本質に近く、分かりやすく、伝わりやすい気がするのです。自他一如や自未得度先度他(じみとくどせんどた)の様に自分と他人の区別もなく、ごく自然に他人の幸せを願えるようになれば、それはもう悟りなのだと思うのです。傷つくのは、やはり、自分というものに執着があるからなのだと思うし、自分と他人の区別がつかなくなり、みんなの幸せを願えるようになれば、本人も周囲の人も、それは浄土に住むような幸せということではないだろうかと思うのです。そのような人が、一人二人と増えていかなければならないと思うのです。自己という絶対的な寄る辺を確保しないで、と言われても、自他一如や自未得度先度他の概念からずれているし、人間の確かな優しさに触れたような心温まる思いが人類から減ってしまうと思うのです。最初から絆、繋がり、関係性ばかり強調して、それを息苦しいどころから、人生で嬉しい事楽しい事の様に感じるために、只管打坐したいのです。相手にとって、本当に優しい存在、相手にとって本当に大事な存在にならないと、相手の能力を最大限に引き出せないと思うのです。これは僕がどうあって欲しいかの問題のなのですが、ネルケ和尚はどう思いますか?
道元禅師の「人生は短く、無常である」という考えについて
大乗仏教の様に、多くの人を救おうとする考え方には、「自利利他」と「慈悲」を基盤とした、広く衆生を救済する精神があるはずです。自己の悟りだけでなく、他者の悟りも助け、互いに生かしていくことを目指していくはずなのです。それなら、人生観も、それを達成しやす様に、生と死も分けずに、死んだ後も同じような人生があると考え、「人生は長く、永遠である」と弟子たちに説くべきだったのではないですか?道元は「人生は短く、無常である」という無常観を強調し、弟子たちに精進を促しましたが、これは個人修行の緊張感を高めるための表現だと思うのです。道元の仏道観は「今、この瞬間を生き切る」ことに重きを置き、永遠を「未来」や「死後」に求めるよりも、「今、坐ること」に求めたわけです。一方、大乗仏教では菩薩が六道輪廻にとどまり衆生を済度するように、死後を含めた永続的な救済が想定されています。
矛盾点として、道元は大乗仏教の僧であるにも関わらず、「人生は短い」と語ることで、大乗的な“広がり”や“永続性”を弱めているように見えるのです。 無常の中に永遠を見出す「刹那永遠」=一瞬にすべてが宿るという発想で、この矛盾は一応説明されますが、弟子や現代人には非常に伝わりにくいと思います。現代では、「生死を超える連続性」や「他者に残る生の記憶」も、仏教的永遠性として再評価する必要があると思うのです。道元は「死後にどう影響を与えるか」には明確に触れていませんが、仏教の本来の枠組みでは死後も因果がつながっていく、つまり「誰かの心に生き続ける」という視点は大切なはずだと思うのです。道元の一貫した「今、ただ坐れ」は、死後への配慮や因縁の持続性を切り落としてしまうと思うのです。補完案として「死者もまた坐っている」「教えは残されて坐り続ける」というふうに、道元の思想を時間軸に広げて捉え直す必要があると思うのです。「仏教のアレ」さんは、どう考えますか?
大乗仏教の様に、多くの人を救おうとする考え方には、「自利利他」と「慈悲」を基盤とした、広く衆生を救済する精神があるはずです。自己の悟りだけでなく、他者の悟りも助け、互いに生かしていくことを目指していくはずなのです。それなら、人生観も、それを達成しやす様に、生と死も分けずに、死んだ後も同じような人生があると考え、「人生は長く、永遠である」と弟子たちに説くべきだったのではないですか?道元は「人生は短く、無常である」という無常観を強調し、弟子たちに精進を促しましたが、これは個人修行の緊張感を高めるための表現だと思うのです。道元の仏道観は「今、この瞬間を生き切る」ことに重きを置き、永遠を「未来」や「死後」に求めるよりも、「今、坐ること」に求めたわけです。一方、大乗仏教では菩薩が六道輪廻にとどまり衆生を済度するように、死後を含めた永続的な救済が想定されています。
矛盾点として、道元は大乗仏教の僧であるにも関わらず、「人生は短い」と語ることで、大乗的な“広がり”や“永続性”を弱めているように見えるのです。 無常の中に永遠を見出す「刹那永遠」=一瞬にすべてが宿るという発想で、この矛盾は一応説明されますが、弟子や現代人には非常に伝わりにくいと思います。現代では、「生死を超える連続性」や「他者に残る生の記憶」も、仏教的永遠性として再評価する必要があると思うのです。道元は「死後にどう影響を与えるか」には明確に触れていませんが、仏教の本来の枠組みでは死後も因果がつながっていく、つまり「誰かの心に生き続ける」という視点は大切なはずだと思うのです。道元の一貫した「今、ただ坐れ」は、死後への配慮や因縁の持続性を切り落としてしまうと思うのです。補完案として「死者もまた坐っている」「教えは残されて坐り続ける」というふうに、道元の思想を時間軸に広げて捉え直す必要があると思うのです。「仏教のアレ」さんは、どう考えますか?
先日も書いた通り、自未得度先度他は落ち着くところであって、そこからいきなり出発しないほうが無難だと思います。
返信ありがとうございます。ネルケ和尚の自己という絶対的な寄る辺を確保する姿勢、仏教の実践を絆的な関係性から一歩引くことからスタートする姿勢は、仏法の真実性・純粋性を保つ事や「正しく仏法を実践することが、最も深い救済である」という道元禅師の確信と繋がり、今の自分に欠けている人生で大事な事の様に感じました。そこから、大乗仏教の様に、多くの人を救おうとする考え方、つまり「自利利他」と「慈悲」を基盤とした、広く衆生を救済する精神を見出したいと思いました。土台や足元をしっかり見て、自己の悟りだけでなく、他者の悟りも助け、互いに生かしていくことを目指していきたいと思いました。これまでの返信、本当にありがとうございました。
返信ありがとうございます。ネルケ和尚の自己という絶対的な寄る辺を確保する姿勢、仏教の実践を絆的な関係性から一歩引くことからスタートする姿勢は、仏法の真実性・純粋性を保つ事や「正しく仏法を実践することが、最も深い救済である」という道元禅師の確信と繋がり、今の自分に欠けている人生で大事な事の様に感じました。そこから、大乗仏教の様に、多くの人を救おうとする考え方、つまり「自利利他」と「慈悲」を基盤とした、広く衆生を救済する精神を見出したいと思いました。土台や足元をしっかり見て、自己の悟りだけでなく、他者の悟りも助け、互いに生かしていくことを目指していきたいと思いました。これまでの返信、本当にありがとうございました。
ご返信ありがとうございました。ネルケ和尚の「自己」という絶対的な寄る辺を確保する姿勢や、仏教実践における距離の取り方に、道元禅師の「正しく仏法を実践することこそ深い救済である」という確信が重なり、自分に今必要な気づきを得られました。そこから「自利利他」や「慈悲」の精神に立ち返り、他者の悟りにも寄与できるよう歩んでいきたいと強く感じています。これまでのご教示、本当にありがとうございました。
「五観の偈」の説明がすごく分かりやすくて、こういう動画があると、ありがたいなと思いました。
「四つは正まさに良薬を事こととするは、形枯を療ぜんが為なり。」はすごくシンプルな教えですが、今流行りの「美食家の美食道」と比較すると、少し調べたり、食事を学ぶ事への消極的に感じます。少欲知足の精神とも相性の良い、「良薬を事こととするは、」の部分は、食事で「完璧な芸術を目指す」姿勢とは、ベクトルが真逆に感じます。「五観の偈」や東洋哲学は現代思想と比べると、なにかと真逆に感じる事が多いのです。
西田稔光さんは、食事で「完璧な芸術を目指す」姿勢や「美食家の美食道」について、どういう考えを持っていますか?「四つは正まさに良薬を事こととするは、形枯を療ぜんが為なり。」と貪欲に美味しいものを追求する姿勢は、どういう関係だと私たちは捉えればよいのでしょうか?今まで美味しいものを追求してきたのに、食事を良薬とするのなら、今までの過程が否定されているようにも感じるのです。もう少しその部分を詳しく聞きたいです。
「四つは正まさに良薬を事こととするは、形枯を療ぜんが為なり。」はすごくシンプルな教えですが、今流行りの「美食家の美食道」と比較すると、少し調べたり、食事を学ぶ事への消極的に感じます。少欲知足の精神とも相性の良い、「良薬を事こととするは、」の部分は、食事で「完璧な芸術を目指す」姿勢とは、ベクトルが真逆に感じます。「五観の偈」や東洋哲学は現代思想と比べると、なにかと真逆に感じる事が多いのです。
西田稔光さんは、食事で「完璧な芸術を目指す」姿勢や「美食家の美食道」について、どういう考えを持っていますか?「四つは正まさに良薬を事こととするは、形枯を療ぜんが為なり。」と貪欲に美味しいものを追求する姿勢は、どういう関係だと私たちは捉えればよいのでしょうか?今まで美味しいものを追求してきたのに、食事を良薬とするのなら、今までの過程が否定されているようにも感じるのです。もう少しその部分を詳しく聞きたいです。