「悲」には、「楽しみを与えてやりたい」という「与楽」の意味
「悲」には、「楽しみを与えてやりたい」という「与楽」の意味
「慈悲」とは「抜苦与楽」を意味する言葉
「聖道の慈悲」の聖道とは、自らの努力によって、煩悩を断ち、悟りを得ようとする仏道
向上心を原動力として、理想を追求する仏道
私たちが持つ慈悲の心は、相手を選らび、一時的で徹底しないもの
不変の真理を知らなければ基礎が確立しない、変化を知らなければ新たな発展がない
「両者の根本は一つ」であり「それらは結びついてないといけない」
その根本は、「風雅の誠」(芭蕉俳諧で美の本質をさす)であり、これを追究する精神が、不易と流行の根底にはなくてはならない
「不易ということを知らなければ、本当にその風雅の誠という意味を知っていることにはならない、不易というのは、古いとか新しいとかで価値が決まるものでもなく、物事が移り変わったり、はやったり、廃れたりすることに左右されるものでもなく、誠に時代や環境を超えてしっかり自立してそこにある姿をいうのである。」と。
唯一無二の存在であるので他人と比較する必要がないのですが、「比べるな」と言われても、つい比べてしまうのが我達かもしれません。勝手に競争をしてイライラし、自分の思い通りにならなかった状況にイライラする。自分と他人を比べる必要なんてないのに、比べることで苦しみを抱えてしまうことがあるかもしれません。
「くらべず、あせらず、あきらめず」は、日常の生活で「くらべて、あせって、あきらめて」いる私の心を立ち止まらせる言葉です。
「いのち」は、私が私としてのありのままを受けとめて、選ばず、嫌わず、見捨てないという願いを持っています。だから今、この一瞬一瞬自分にできることを精一杯し、自分らしく生きようという呼びかけの言葉ではないかと感じます。私たちは誰のためでもない、自分のために生きるのです。目の前の自分自身のしたいこと、しなければならないこと、できることを素直にしていく姿勢を大切にしたいものです
親鸞聖人は、あるがままの自分でいることができず、他者との比較や自己評価に苦しむ私たちのあり方を「煩悩具足の凡夫」と教えてくださっています。「凡夫」とは,自分自身の「ものさし」に気づくことができず、自分や他者、物事を都合のいいように計ったり、誤った見方をしたり、驕り高ぶる私たちをさします。親鸞聖人は、その自分を否定するのではなく、「凡夫」である自分自身を自覚することが必要だとしています。そう自覚することで、自分中心の閉ざされた心が他者へと開かれ、劣等感や自己評価による苦しみから少しずつ解放され、「あるがままの自分」を受け入れる一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。これはいわば「自分と和解する」ことだと言えると思います。
自分自身の欠点やコンプレックスなども含め、あるがままの自分を受け入れ、他者を思いやるように自分をも否定しない姿勢、すなわち「自分と和解する」ことが本当の意味での幸せにつながるのではないでしょうか
国宝とは何か。宝とは道(仏道)を修めようとする心である。この道心を持っている人こそ社会にとってなくてはならない国の宝である。
その行動は「悪い事は己が引き受け」「好い事は他に与へる」という「己を忘れて他を利する」という行いで「慈悲の極みなり」と評して、国宝=道心の有る人=慈悲の心ある人=一隅を照らす人の養成が目的であることを述べておられます。最澄の大乗菩薩道実現への思いが推察されます
「慚愧に堪えない」などと定着していますが,慚と愧はそれぞれ,自身と教えに照らして自らの過失を恥じ入り,善なるものを尊重すること(慚),他者に照らして自らの過失を恥じ入り,悪行をさけること(愧)を意味します。では,恥じ入ることと心を耕すことはどのように関わるのでしょうか。
ここで、その教えの中にある「分別の心を捨てる」にフォーカスしてみます。分別とは一般的に「道理をわきまえていること」「物事の善悪・損得などをよく考えること」と良い意味で使われますが、仏教的には「比べる心」を意味し、その存在によって競争や格差を生み出し、迷いや苦悩をもたらすとしています。
即ち、私たち人間のその小賢しい分別心は、国籍・民族・文化・能力等の違いを盾にして、自分と自分の世界を絶対化し、差別や対立を生み出すものであり、他人や自分をも傷つけることになるような、そんな心は捨てなさいと説かれているのです。
日常的に心に降りかかる辛さやストレスの根源は、私たちの中にある「分別心」なのです。所詮人間の力はたかが知れています。たとえ人より能力が高くてもいつも上手くいくわけはなく、競争に勝ち続けることはいずれできなくなるのです。だからこそ、比較優位や競争上位のみを求めることよりも、そのような価値基準から離脱することが肝要です。もちろん精一杯ベストを尽くすことは大切で、それを否定するものではありませんが、私たち人間には限界があり、周りの人々の協力が必要なのです。
できないことを思い詰めるより、比べることを止めそのあるがままを受け入れ、そしていっそのこと、ほかの力に頼る方が良い、そうすることにより、この身が幾分か軽くなるのではないでしょうか。
私たちは自らの「我」の中にある和順に捉われ、その和順に反することを他者の責任、社会の責任、時代の責任とし、時に排除しようとし、時に妬み嫉み、時にあきらめるなどしてしまいます。
個別の不安や苦悩と向き合い、その不安や苦悩を抱くことそのものが永遠の理法への反逆であるという自己否定によってのみ、到達することができる
選び取った極楽浄土とは、他を責めるのではなく、不確かな人間の判断による善悪の人間評価を離れて、ともに身の事実を引き受けて生きていこうとする人間の世界のことなのです。
「聖道の慈悲」の聖道とは、自らの努力によって、煩悩を断ち、悟りを得ようとする仏道
向上心を原動力として、理想を追求する仏道
私たちが持つ慈悲の心は、相手を選らび、一時的で徹底しないもの
不変の真理を知らなければ基礎が確立しない、変化を知らなければ新たな発展がない
「両者の根本は一つ」であり「それらは結びついてないといけない」
その根本は、「風雅の誠」(芭蕉俳諧で美の本質をさす)であり、これを追究する精神が、不易と流行の根底にはなくてはならない
「不易ということを知らなければ、本当にその風雅の誠という意味を知っていることにはならない、不易というのは、古いとか新しいとかで価値が決まるものでもなく、物事が移り変わったり、はやったり、廃れたりすることに左右されるものでもなく、誠に時代や環境を超えてしっかり自立してそこにある姿をいうのである。」と。
唯一無二の存在であるので他人と比較する必要がないのですが、「比べるな」と言われても、つい比べてしまうのが我達かもしれません。勝手に競争をしてイライラし、自分の思い通りにならなかった状況にイライラする。自分と他人を比べる必要なんてないのに、比べることで苦しみを抱えてしまうことがあるかもしれません。
「くらべず、あせらず、あきらめず」は、日常の生活で「くらべて、あせって、あきらめて」いる私の心を立ち止まらせる言葉です。
「いのち」は、私が私としてのありのままを受けとめて、選ばず、嫌わず、見捨てないという願いを持っています。だから今、この一瞬一瞬自分にできることを精一杯し、自分らしく生きようという呼びかけの言葉ではないかと感じます。私たちは誰のためでもない、自分のために生きるのです。目の前の自分自身のしたいこと、しなければならないこと、できることを素直にしていく姿勢を大切にしたいものです
親鸞聖人は、あるがままの自分でいることができず、他者との比較や自己評価に苦しむ私たちのあり方を「煩悩具足の凡夫」と教えてくださっています。「凡夫」とは,自分自身の「ものさし」に気づくことができず、自分や他者、物事を都合のいいように計ったり、誤った見方をしたり、驕り高ぶる私たちをさします。親鸞聖人は、その自分を否定するのではなく、「凡夫」である自分自身を自覚することが必要だとしています。そう自覚することで、自分中心の閉ざされた心が他者へと開かれ、劣等感や自己評価による苦しみから少しずつ解放され、「あるがままの自分」を受け入れる一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。これはいわば「自分と和解する」ことだと言えると思います。
自分自身の欠点やコンプレックスなども含め、あるがままの自分を受け入れ、他者を思いやるように自分をも否定しない姿勢、すなわち「自分と和解する」ことが本当の意味での幸せにつながるのではないでしょうか
国宝とは何か。宝とは道(仏道)を修めようとする心である。この道心を持っている人こそ社会にとってなくてはならない国の宝である。
その行動は「悪い事は己が引き受け」「好い事は他に与へる」という「己を忘れて他を利する」という行いで「慈悲の極みなり」と評して、国宝=道心の有る人=慈悲の心ある人=一隅を照らす人の養成が目的であることを述べておられます。最澄の大乗菩薩道実現への思いが推察されます
「慚愧に堪えない」などと定着していますが,慚と愧はそれぞれ,自身と教えに照らして自らの過失を恥じ入り,善なるものを尊重すること(慚),他者に照らして自らの過失を恥じ入り,悪行をさけること(愧)を意味します。では,恥じ入ることと心を耕すことはどのように関わるのでしょうか。
ここで、その教えの中にある「分別の心を捨てる」にフォーカスしてみます。分別とは一般的に「道理をわきまえていること」「物事の善悪・損得などをよく考えること」と良い意味で使われますが、仏教的には「比べる心」を意味し、その存在によって競争や格差を生み出し、迷いや苦悩をもたらすとしています。
即ち、私たち人間のその小賢しい分別心は、国籍・民族・文化・能力等の違いを盾にして、自分と自分の世界を絶対化し、差別や対立を生み出すものであり、他人や自分をも傷つけることになるような、そんな心は捨てなさいと説かれているのです。
日常的に心に降りかかる辛さやストレスの根源は、私たちの中にある「分別心」なのです。所詮人間の力はたかが知れています。たとえ人より能力が高くてもいつも上手くいくわけはなく、競争に勝ち続けることはいずれできなくなるのです。だからこそ、比較優位や競争上位のみを求めることよりも、そのような価値基準から離脱することが肝要です。もちろん精一杯ベストを尽くすことは大切で、それを否定するものではありませんが、私たち人間には限界があり、周りの人々の協力が必要なのです。
できないことを思い詰めるより、比べることを止めそのあるがままを受け入れ、そしていっそのこと、ほかの力に頼る方が良い、そうすることにより、この身が幾分か軽くなるのではないでしょうか。
私たちは自らの「我」の中にある和順に捉われ、その和順に反することを他者の責任、社会の責任、時代の責任とし、時に排除しようとし、時に妬み嫉み、時にあきらめるなどしてしまいます。
個別の不安や苦悩と向き合い、その不安や苦悩を抱くことそのものが永遠の理法への反逆であるという自己否定によってのみ、到達することができる
選び取った極楽浄土とは、他を責めるのではなく、不確かな人間の判断による善悪の人間評価を離れて、ともに身の事実を引き受けて生きていこうとする人間の世界のことなのです。
「無限の他力」を確信した者こそが「独立者」の自覚を持つ
宗教においてまず問われるべきは自己自身だということを私たちは心に銘記すべきかもしれない。「仏道をならうというは、自己をならうなり」と言ったのは、同じ鎌倉仏教史を彩った道元であったことも付け加えておこう。
逃れ得ない事実を事実として、あらゆる事実を無限の大悲(如来)に照らされた事実として真正面から受け止めていく生き方、それは、決してアキラメの生き方ではない。立脚地に立つ独立者の生き方である。
事実を事実として、しかと受け止める生き方が出来るならば、何ら不安はないのである。不自由を感じるはずはない。ただ、ありのままを生きる自らがあるのみである。
宗教は、問われるべきは自分自身であること、また問題があるとすれば、他でもない自分自身にあることを強く言う(もっとも、殆どの人にとって問題がどこにあるかが分かっていないのだが)。他者を批判する前に、まず自らを省み、自らを深く探求することの中に生の意味は明らかになると宗教は教えているのだ。そして、その意味とは<生死の苦海>(親鸞の言葉)に浮沈する私たち自身の中に本当に依るべき不動の真理が隠されているということだ。この依るべきところを釈尊は「島」と言い、依るべき真理を「法」と呼んだのである。それこそ私たちの立脚地であり、それを知りさえすれば、もはや私たちは生死の波に翻弄されることはない。
「他力」とは「自力」に対するもので、私たちを無条件で生かしている大いなる力ということができる。自己の立脚地をこの大いなる力の上に置くとき、我々はおのずとこの世での自らの役割を見出し、それに邁進する道が与えられるのである。
しかし自我に閉ざされ、他に抜きん出て利得をむさぼろうとするとき、我々はたちまちにして閉塞的な状況に転落する。自力は時として他者との関係を切断し、我々が本来与えられている生への意欲をも削ぎ取りかねないのである。
いま一度、深く内省することによって、永遠の過去・無限の彼方からなる大いなる力に立ち返り、この世に処する道を真摯にたずねたいものである。
愛(慈悲)とは、非暴力とは何かを知ることになる。しかし、今のところ私たち人間はその認識に到達していないために、環境の破壊はますます進み、また仮想の敵を想定して相争っていることは、昨今の世界状況を見れば明らかである。
生かせていただいていることへの感謝の心。自己中心的な自分を振り返り、支えてくださっている全てのものに感謝すること。
宗教においてまず問われるべきは自己自身だということを私たちは心に銘記すべきかもしれない。「仏道をならうというは、自己をならうなり」と言ったのは、同じ鎌倉仏教史を彩った道元であったことも付け加えておこう。
逃れ得ない事実を事実として、あらゆる事実を無限の大悲(如来)に照らされた事実として真正面から受け止めていく生き方、それは、決してアキラメの生き方ではない。立脚地に立つ独立者の生き方である。
事実を事実として、しかと受け止める生き方が出来るならば、何ら不安はないのである。不自由を感じるはずはない。ただ、ありのままを生きる自らがあるのみである。
宗教は、問われるべきは自分自身であること、また問題があるとすれば、他でもない自分自身にあることを強く言う(もっとも、殆どの人にとって問題がどこにあるかが分かっていないのだが)。他者を批判する前に、まず自らを省み、自らを深く探求することの中に生の意味は明らかになると宗教は教えているのだ。そして、その意味とは<生死の苦海>(親鸞の言葉)に浮沈する私たち自身の中に本当に依るべき不動の真理が隠されているということだ。この依るべきところを釈尊は「島」と言い、依るべき真理を「法」と呼んだのである。それこそ私たちの立脚地であり、それを知りさえすれば、もはや私たちは生死の波に翻弄されることはない。
「他力」とは「自力」に対するもので、私たちを無条件で生かしている大いなる力ということができる。自己の立脚地をこの大いなる力の上に置くとき、我々はおのずとこの世での自らの役割を見出し、それに邁進する道が与えられるのである。
しかし自我に閉ざされ、他に抜きん出て利得をむさぼろうとするとき、我々はたちまちにして閉塞的な状況に転落する。自力は時として他者との関係を切断し、我々が本来与えられている生への意欲をも削ぎ取りかねないのである。
いま一度、深く内省することによって、永遠の過去・無限の彼方からなる大いなる力に立ち返り、この世に処する道を真摯にたずねたいものである。
愛(慈悲)とは、非暴力とは何かを知ることになる。しかし、今のところ私たち人間はその認識に到達していないために、環境の破壊はますます進み、また仮想の敵を想定して相争っていることは、昨今の世界状況を見れば明らかである。
生かせていただいていることへの感謝の心。自己中心的な自分を振り返り、支えてくださっている全てのものに感謝すること。